犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

名古屋・暴走無差別殺人未遂事件

2014-03-01 22:22:09 | 国家・政治・刑罰

2月24日 朝日新聞デジタルニュースより

 2月23日午後2時15分ごろ、名古屋市中村区名駅1丁目のJR名古屋駅近くの歩道に乗用車が突っ込み、通行人を次々とはねた。同市中川区の男性(22)が腰の骨が折れる重傷、ほかに12人が足などにけがをした。車を運転していた男は「わざと人をはねた。殺すつもりだった。誰でもよかった」と供述しているといい、愛知県警は、男を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。

 逮捕されたのは、同市西区栄生3丁目、無職大野木亮太容疑者(30)。県警によると、大野木容疑者は交差点を左折する際、そのまま歩道に乗り上げ、通行人をはねながら35メートルほど進み、歩道の街路樹に衝突して止まったという。目撃者の話では、時速30~40キロで走っていたという。はねられたのは10~40代の男性7人、女性6人だった。


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 人間が狂気の側から襲われた瞬間には、獣のような絶叫とともに目の前の物を手当たり次第投げつけたり、床に頭や全身を打ちつけてのた打ち回るなど、前後左右が不覚になる切迫感と悲壮感を伴うはずだと思います。ところが、この容疑者の行動を見ると、計画的にレンタカーを借りて、ハンドルやアクセルの機能を正しく認識して当初の目的を遂行しており、私はここから本物の狂気を感じ取ることができません。単に、冷静な自暴自棄であるとの感を持ちます。

 報道で伝えられる客観的な事実は、実際にその場で起きた出来事のごく一部にすぎませんし、ましてや容疑者の供述は容疑者の心の中ではありません。「動機を知りたい」という評論家目線の分析は、否応なしに論者の政治的な主義主張に結び付けられるのみだと思います。他方で、犯罪者目線からの分析は、本人しか絶対にわからない一線のスイッチを語ることになるため、やはり他人には理解不能です。ここを他人が深く追究したところで、何も出て来ないと思います。

 当の加害者にとっては内側の大宇宙の問題であっても、これは文学の言語でのみ語り得るものであり、社会制度である法律や裁判の場の言語としては不適格です。そして、加害者と被害者が存在して初めて成立する犯罪において、罪と罰の本質を正しく表すのは、被害者の言葉以外にあり得ません。現在の裁判では、被告人が主張や陳述をする機会は被害者の十数倍は与えられていますが、私は現場の経験者として、この時間は逆でなければならないと思っています。

 「たかがこの程度のことで大事件を起こしたのか」という印象の生起についても、現在の裁判システムによる効果は大きいと感じます。精神鑑定により責任能力を問題にすることは、検察と闘って刑の減免を勝ち取ることであり、戦略的なしたたかさや腹黒さの要素が混入することになります。これは内省的な姿勢とは対極的な位置にあり、ひとたびこの構造に入ってしまうと、二度と元には戻りません。従って、迫真性を欠く言葉ばかりが残ってしまうのだと思います。