犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

千葉県柏市 連続通り魔事件 その1

2014-03-05 23:32:19 | 国家・政治・刑罰

3月6日 毎日新聞ニュースより

 千葉県柏市の連続通り魔事件で、強盗殺人容疑で逮捕された自称無職、竹井聖寿容疑者(24)が県警柏署捜査本部の調べに対し、「バスジャックをして空港に乗り付け、ハイジャックした飛行機で東京スカイツリーに突っ込み、社会に復讐しようと考えた」と供述していることが分かった。捜査本部は、金銭目的だけでなく、社会への不満を募らせて事件に及んだ可能性があるとみて追及する。

 捜査本部によると、竹井容疑者は生計の手段について「親からの仕送りや生活保護」と説明。事件の動機について「金がほしかった」などと話す一方で「社会に復讐したかった」との趣旨の供述をたびたびしているという。事件は3日深夜、同じ市道の約50メートルの範囲で発生。約10分の間に竹井容疑者と同じマンションに住む会社員の池間博也さん(31)が刺殺され、通りかかった男性3人が刃物で脅されて負傷したり、財布や車を奪われたりした。


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 現代の閉塞感漂うストレス社会、格差社会、競争社会、無縁社会において、多くの社会問題は山積みのままです。恐らく、今の社会に何も不満がないという現代人は皆無に等しいと思います。私も、今の社会はあまりに病んでいると感じており、社会に対する不満は強いほうだと思います。また、社会保障制度や社会保険制度が政治課題として語られるとき、社会に不満を持つことは正義であり、「今の社会に対して不満がないわけがない」というステレオタイプの文脈の力は非常に強いと感じます。

 それだけに、凶悪犯罪の動機として「社会への不満」というステレオタイプの文法が言語化され、これに社会常識からのステレオタイプの評価が与えられれば、社会性を有している社会人は、凶悪犯人の論理にひれ伏してしまうことになります。私は、この固定観念に基づく文法に自然に乗せられてしまう瞬間を、非常に気持ち悪いと感じる者です。私は、刑事裁判の現場でこのような言葉を聞かされる職務に従事し、歯痒さで鬱屈し続けてきただけに、この動機の追及は無意味であると確信します。

 私は初めて社会に出たのは、裁判所という狭い社会であり、一種の村社会のような場所でしたが、私はここで社会の厳しさを知り、社会人の責任というものを身につけました。そして、何とか社会に適応しつつ、社会人をやってきました。「社会」という言葉は抽象名詞であり、目で見たり手で触れたりすることはできず、一種の幻想であることは常識でわかります。しかしながら、言語は現に抽象概念を実体化させるものであり、私は確かに社会生活を営み、実社会の中で社会勉強をしてきました。

 この「社会」という厄介な抽象名詞は、人間に対して「社会を変える」という妄想を有することを可能にもすれば、「社会の壁」「社会の厳しさ」という圧倒的な力によって人間の精神を病ませることも可能です。そして、この概念は、現に多くの人間を自死に追い込んでいるものと思います。「こんなことは社会で通用しない」という独特の言い回しは、個人と社会の同一性と対立関係をめぐる複雑な思考の混乱を引き起こすものであり、この精神の疲弊は容易に自死の絶望に直結するからです。

(続きます。)