犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「3・11」 その1

2014-03-12 23:46:03 | 時間・生死・人生

3月11日 NEWSポストセブン
「ビートたけしが震災直後に語った『悲しみの本質と被害の重み』」より

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。


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 「3・11」という象徴的な文字列には、2種類の意味が託されていると感じます。その1つは「悲しみと鎮魂、追悼の日」であり、もう1つは「歴史的事故の反省、脱原発活動の象徴の日」です。これらは本来、理屈として相反するものではなく、実際に両立して語られてきているとも思います。

 しかしながら、前者からは「がれきは思い出の詰まった被災財」であり、後者からは「がれきは放射能で汚染された忌むべきもの」であり、相互理解の不能が顕在化していることもまた事実だと思います。ここでは、同じ「3・11」という象徴の奪い合いが生じているとの印象を受けます。

 私は仕事上、「3・11」は原発ゼロを目指す日であり、再稼動反対アピールの日であるという環境の中におります。しかしながら、私は上記のビートたけしさんの意見、「1人が死んだ事件が2万件あった」という指摘が深く腑に落ちる者ですので、率直に言えば、この環境の居心地はあまり良くありません。

 脱原発活動の空気の中では、地震や津波そのものはあくまで天災にすぎず、人災である原発事故よりも一段低く置かれます。人間が危機感を持つべき最重要課題は、人類史上最悪の放射能汚染の話に決まっているではないかということです。天災ほうの話は、最後は諦めがつくはずだという結論です。

(続きます。)

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