犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小川洋子著 『博士の本棚』

2011-12-17 00:02:35 | 読書感想文
p.38~ 「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」より
 作家の前にはいつも真っ白い原稿用紙が置かれている。そこにゼロから世界を作り上げ、登場人物たちを動かし、再び世界を完結させられるのは、自分1人しかいないと信じている。
 ところが本書を読むと、果たして本当にそうなのだろうかと疑問がわく。もしかしたら、作家が自分で作り上げたと思いこんでいる虚構は、既にどこか、自分のすぐそばの現実の中にあったのではないか。作家はただそれを見つけ出し、言葉を与えたに過ぎないのではないか。

p.66~ 「トゥルー・ストーリーズ」より
 人間は誰でも死ぬのだから、ある程度生きていれば、家族や友人の死に出会うのは当然の成り行きだろう。しかし彼はただ単純に、あの人も死んだ、この人も死んだ、でも自分は生きている、と言っているのではない。
 1つ1つの死は、決して消えない刻印を残した。生者は目の前から去ったのではなく、死者として新たに生まれたのだ。繰り返し彼は刻印を凝視し、その痛みを味わうことによって、死者と交流している。生きている者が示すのと同じ意味深さを、死者の存在もまた示している。

p.239~
 心臓病の子どもを抱え、苦しんでいる友人がいる。彼女は、「息子が死ぬことをどうしても受け入れられない」と言った。自分の生んだ子どもが消え去ったあとの世界がどうなるのか、そもそもそこに世界など存在するのか、想像できないのだろう。
 友人としてなす術のない自分に苛立ちながら、同時に私は、彼女の姿から子どもを愛する純粋な人間の心を感じ取り、厳かな気持になったりもした。自分の命をなげうってでも守りたいものがある人生とは、何と尊いのだろうか。
 一方で子どもを虐待死させる親もいる。合理的な理由などなく、子どもを失ったあとの世界について思いを巡らせもせず、そこに死が訪れるまで、ただ自分の感情を吐き出すことにのみエネルギーを費やす。その間の親の心がどういう状態にあるのか、私のような素人が詮索しても意味がないだろう。
 戦争に対してであれ、虐待に対してであれ、作家が果たせる役割は回りくどく、ささやかなものに過ぎない。人生の尊さを示すこと、ただそれだけなのだ。作家は人間が犠牲の心を持った存在であることを、何度でも書いてゆかなければならない。たとえ自分の発する言葉が相手に届かないと分かっていても、あきらめず、愚直に、同じことを繰り返さなければならない。


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 作家に対する一般的なイメージは、作品よりも職業が先に立つものだと思います。すなわち、人は作家になることを志望して作品を書き、それが世に認められれば作家となるのだという理解が一般的だと思います。しかしながら、私はいくつかの小説を通じて、時間を一点に凝縮した描写は現実の時間の限界を超え、現実と虚構との臨場感は逆転するものだと知りました。そして、その文字の並びの普遍性が作家個人の存在を忘れさせることを知り、入口が逆であることにも気が付きました。

 作家になりたいと言って作家を目指すのであれば、その先にあるものは職業であり、作品ではなくなります。これは作家に限ったことではありませんが、霞を食って生きることのできない経済社会においては、まずは職業に就くことが先決問題であり、自らが為すべき行為の必然性の側から仕事を捉えることは非常に困難であると感じます。反対側の入口を強制されているようにも思えます。

池田晶子著 『魂とは何か』より

2011-12-14 00:12:16 | 読書感想文
p.241~ 「天才の生き方について」より

 「天才の型」というのを考えたことがある。モーツァルト・ランボー型と、ブラームス・ゲーテ型。かたや、華々しき才能を驚嘆されながら早々に散る型。かたや、円熟を迎えてなお精進に相努め、世の尊敬のうちに没。これに加えてもう1つ、自身の才能を自覚するゆえにその重さに耐えきれず、自ら死を選ぶ芥川龍之介型。

 我々凡人は、彼ら天才の内面で進行しているであろう緊密な質の持続を理解し得ず、外に表わされた作品のみに接して、それらを点と点でつなぎ、推測することができるだけだ。そしてまた我々は、彼らの内的必然性を理解し得ないために、多く、「幸・不幸」という尺度をもって、その人生を測ろうとする。おそらくこれが、凡人の凡人たるゆえんであり、またその限界でもあろう。彼ら自身にあって、彼らが彼らであるということと、幸・不幸ということとは、別のことではなかったろうか。

 天才に限ったことではないだろう。我々凡人においてもまた、為さなければならないことだけが、為さなければならないのではないか。おそらく、世の人は、為さなくてもいいことを為しすぎる。あるいは逆に、為さなければならないことを、為さなすぎる。凡庸とて、ひとつの宿命であろう。


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 天才とはどのような人かと問われて答えるのは難しいですが、一般的に、「斬新な着眼力や独創性を持った人物」との共通認識があるように思います。但し、それが「斬新でありたい」「独創的でありたい」との欲望の文脈で語られることはあっても、「意図せずに斬新であってしまう」「必然的な独創に苦しむ」との狂気の文脈で語られることは少ないように感じます。そして、そのこと自体が、天才と凡人の区別を可能にしていると思われます。

 私には、世間一般の評価とは次元を異にする場面において、天才としか思えない方々が何人かいます。その方々に自己顕示欲は皆無であり、幸福追求の価値を超越しており、しかもその状態が一生続くことが確実です。そして、その方々の境遇は、世間一般には「自分は同じ立場には立ちたくない」と思われているものです。他方で、「俺は天才だ」と自惚れている人は、私には凡人の俗物にしか見えません。

谷原誠著 『現役弁護士が書いた 思いどおりに他人を動かす交渉・説得の技術』

2011-12-11 23:51:13 | 読書感想文
p.164~

 私は、今は民事事件が中心だが、昔はよく刑事事件も扱った。傷害事件や強姦事件のように相手がある事件は、被害者と示談できるかどうか、が被告人の量刑を左右する大きな要素となる。したがって弁護人は、被害者との示談に大きな力を注ぐ。私が刑事事件を担当したときも、もちろん示談に全力を注いだ。そして、ほとんどの事件で示談を成立させることができた。
 ある強姦事件を扱ったときのことである。加害者の親が、被害者に謝りに行こうとしたが、被害者は絶対に会いたくないと言っており、厳罰を望んでいた。強姦事件は、女性の心にぬぐいがたい傷を残し、その傷は一生残る。結婚生活にも影響することがあると言う。そのことから考えると、示談などとんでもないということだろう。

 しかし、そのような状態であっても、事件を引き受けた以上、被害者との示談を進めなければならない。通常の示談はどうするかと言うと、「このたびは被告人があなたに多大なご迷惑をおかけしました。被告人に代わってお詫び申し上げます。本日は、示談金をお持ちしました。少ないとは思いますが、これが精一杯です。何とか示談にしていただけないでしょうか。被告人には病気の母親がいて、今刑務所に入るわけにはいかないのです」というパターンである。
 これでも、示談が成立することはあるだろう。ただ、これは加害者側の論理である。被害者の側の事情はいっさい考慮していない。これを聞いた被害者はどう思うだろう。「何て身勝手な加害者だろう。犯行も身勝手なら、逮捕されてからも反省せず、こんな身勝手なことを言っているのか」。強姦事件の被害者は心に深い傷を負っており、多少の金を積まれたとしても、とても示談には応じないだろう。

 私は、示談を進めるにあたっては、完全に被害者の心にスポットをあてるようにしている。強姦事件の被害に遭った被害者がどのような恐怖を味わい、その後、現在までどのような気持ちで夜道を歩き、男性と接しているか。完全に感じることは無理だが、可能な限り共感するようにしている。
 そして被害者の立場に立ち、今、被害者ができることは何かを、法律家の観点から話をする。被告人が犯した犯罪についてはしかるべき刑罰を受けるべきだが、それは、被告人と国家との問題であり、被害者には関係がない。被害者は、心に受けた傷をどうやって癒し、事件を忘れ、将来にしこりをのこさないようにしていくかが重要である。事件を、被告人の問題としてではなく、被害者自身の問題として焦点をあてるのである。

 私は被害者と話をする際、そのような観点から話をするようにしている。そうすると結局、被害者としても事件のことは早く忘れ、一刻も早く立ち直ることが先決ということになる。


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 現役弁護士が書いたこの本を通して読んでみると、犯罪被害者との示談交渉について述べたこの部分だけが浮き上がっているように見えます。他の箇所は、どこも腹黒い腹の探り合いを打開する方法論が書かれており、頭脳を駆使して臨機応変に相手の出方を待つ独特の緊張感が克明に記されています。
 私の狭い経験の中でも、交渉の場で上手に出るか下手に出るかの選択を間違えて大怪我をしたことがあり、この嗅覚を磨くことはビジネス社会で潰れないための最低条件とも思えます。百戦錬磨の敵を相手にするには、ある時は開き直り、ある時は相手の弱みにつけ込み、またある時には泣き落としに入り、ある時には他人になりすますなどして、心理戦で先に消耗しないように身構えておく必要があります。

 ところが、犯罪被害者に関するこの部分の記述だけ、魑魅魍魎の中に突如として聖人君子が現れたような印象を受けます。典型的なビジネスの場面では必要悪が必要悪として奨励され、他人の痛みや苦しみに鈍感になることが暗黙のうちに許容されていたのが、犯罪被害者に対する示談交渉の場面だけは痛みや苦しみへの敏感さに価値が置かれています。これは、交渉相手との互換性が薄いことに伴うものと思われます。
 弁護士の犯罪被害者との交渉は、下手に出るものと最初から決まっています。すなわち、上手に出るか下手に出るかの駆け引きという最大の緊張から逃れています。これは最初から負けているということであり、かつ最初から勝っているということです。すなわち、「お気持ちはわかります」と繰り返すのが決まりであり、被害者の言葉には正面から反論してはなりません。商談の仁義なき現場のように頭をフル回転する必要はなく、頭を下げ続けるのが原則だということです。

 谷原弁護士が述べるとおり、示談交渉に臨む弁護士の多くは、真剣になるあまりいつの間にか必死に加害者側の論理を力説しているという陥穽にはまっているものと思います。その意味では、谷原弁護士の洞察は間違ってはいないと感じます。ただ、最後の最後に論理が裏返っているため、全ての話が逆になっており、しかも弁舌の巧みさによって論者自身が懐柔されているように思われます。
 頭の回転が速い弁護士と傷を負った犯罪被害者とが向き合えば、最初から勝負はついています。そして、犯罪に伴う示談交渉は一般のビジネスと違って勝負事ではないため、事態はより見えにくくなるように思います。頭が切れる者の言語能力は、巧みに言葉をずらして相手を誘導する能力に通じます。絶妙のタイミングで「それが本当にあなたのためになるのでしょうか」との問いを発し、外堀を埋めていけば、何だかわからない間に話がどんどん決まっていくことになります。

 私自身の経験からですが、ビジネス社会の第一線で奔走し、論理と客観性を重んじる法律家は、情に訴える場面を一段下の仕事と評価せざるを得ないのが通常のことと思います。すなわち、犯罪被害者に向けられる視線は敬意ではなく、上から目線です。被害者の心にスポットを当てるのは、あくまでも弁護人が加害者のために有利な量刑を導くための手段です。これは刑事弁護人の職務上当然のところであり、かつ偽善性や欺瞞性が集中している部分です。
 被害者側の論理を押し進めるならば、弁護人は「一刻も早く立ち直ることが先決である」とは断じて言えず、余計な口出しは不要となります。加害者の被害者に対する最大の誠意の示し方は、賠償金は支払うものの示談書は交わさず、被害者が賠償金を受け取ったことを裁判所に報告せず、かつ内心では反省の意を持ちつつそれを法廷では述べず、自身を厳罰へと誘導することです。偽善性や欺瞞性を可能な限り払拭するには、このような本筋は否定できないものと思います。

 法律家の職業病として、法律論以外の言葉の行間が読めなくなるという問題も大きいように感じます。例えば、「強姦事件は女性の心にぬぐいがたい傷を残し、その傷は一生残る」と述べたとしても、法律家においてはその言葉がそのまま鍵括弧に入ってしまい、一般的な意味が通じないということです。
 傷が一生残るということは、その時の光景が画面として脳裏に焼きついて細部まで鮮明に思い出すことが可能であり、しかもその後の思考すべてが時間の先後の法則に従って玉突き的に規定されており、永久に取り返しがつかないという絶望と戦慄を常時伴うはずのものです。そして、その周囲の者は、現にそのような人生を生きている者に対する畏怖を持たざるを得ないはずです。ここでは、「傷は一生残る」という命題と「一刻も早く立ち直る」という命題が両立する余地はないように思われます。

 犯罪被害者との示談交渉に関する弁護士の叙述が自己欺瞞を逃れているかの試金石として、示談が成立した数や確率を誇っているか否か、という点が挙げられると思います。すなわち、「ほとんどの事件で示談を成立させることができた」と言い切ってしまえば、後に示談したことを後悔した被害者の存在は眼中から排除されます。実際のところ、多くの事件を流れ作業でこなしている弁護士は、昔の事件の被害者のことは記憶の端にも上らないのが通常のことと思われます。
 谷原弁護士の上記の論述は、犯罪被害者との示談交渉に苦しんでいる多くの弁護士の助けになるものと思います。但し、被告人が強姦の公訴事実を否認しているときには、被害者を証人として法廷に呼んで当日の出来事を根掘り葉掘り細かく聞いて争うことになるため、被害者の心にスポットをあてる方法は役に立ちません。また、保釈を求めて争う場面では、憲法の「人身の自由」の前には被害者はどこかに飛んでしまうため、やはりすべての場面を包括する万能の論理になり得ることはないと思います。

山本周五郎著 『赤ひげ診療譚』

2011-12-08 23:45:35 | 読書感想文
p.216~
 この世から背徳や罪悪を無くすことはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。
 「そんなことは徒労だというだろう。おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終わっているものが多い」と去定は云った。「世の中は絶えず動いている。農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる。それについてゆけない者のことなど構ってはいられない。だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ。いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」。
 人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、おれは自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている。そこまで云ってきて、急に去定は乱暴に首を振った。「おれはなにを云おうとしているんだ、ばかばかしい」。そしてまた髯をごしごし擦った。

p.262~
 貧しい人たちはお互い同士が頼りである。幕府はもちろん、世間の富者もかれらのためにはなにもしてはくれない。貧しい者には貧しい者、同じ長屋、隣り近所だけしか頼るものはない。しかし、その反面には、やはり強い者と弱い者の差があるし、羨望や嫉妬や、虚飾や傲慢があった。そのうえ、いつもぎりぎりの生活をしているため、それらは少しの抑制もなく、むきだしにあらわされるのが常であった。
 いつもは一と匙の塩を気楽に借りる仲でも、極めてつまらない理由、たとえば、こっちへ向いて唾をしたとか、朝の挨拶が気に入らなかったとか、へんにつんとしていた、などというたぐいのことで、いっぺんに仇敵のように憎み出すのである。かれらがお互いに、自分を捨てても助け合おうとする情の篤さは、生活に不自由のない人たちには理解ができないであろう。と同時に、彼らの虚飾や傲慢や、自尊心や憎悪などの、素朴なほどむきだしなあらわしかたも、理解することはできないに相違ない。
 一と匙の塩まで借りあい、きょうだい以上につきあっていながら、死ななければならないという理由は話せない。


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 私は仕事上、生活保護を受けている方々や、いわゆるブラック企業に勤めて虐げられている方々と日常的に接する立場にあり、昨今の「貧困」を肌で感じています。それだけに、「反貧困」という単語には違和感があります。

 「貧困」は抽象的な概念ではあるものの、その何かに反対することにより、その動力はある一方向のみの情念に人間を誘導し、固定化させます。さらに、その情念は政治的にならざるを得ず、誘導された人間は徒党を組み、それに反対する者は敵とみなされることになります。貧困の問題に際して自己責任論がとやかく言われるのは、無意味なことと思います。

 山本周五郎氏は、江戸時代の社会のいわゆる底辺の人々の姿を克明に描いています。1人の人間が限られた人生の中で、その頭の中で考え得ることは、江戸時代も平成も大して変わらないものと思います。但し、政治的な主張にかかってしまえば、封建時代の貧困と民主主義の時代の貧困とは話が違うと一蹴されて終わりかも知れません。

藤沢周平著 『長門守の陰謀』より

2011-12-06 00:06:03 | 読書感想文
p.140~

 振りかえると、単純だが真直ぐな一本の道が見えた。その道を歩いて、いまの場所まで来たことに、鶴蔵はほぼ満足していた。その鶴蔵が、ごく稀にだが、人間の別の生き方といったものに心をとらわれるようになったのは、40を過ぎてからであった。もっとくわしく言えば、42の厄年を迎えた3年前ごろからである。

 一軒の店の主になった鶴蔵は、同業のつき合いとか、あるいは仕入れ先の人間をもてなす必要があったりして、時どき小料理屋や茶屋で酒を飲むことがあった。そういうとき鶴蔵は、自分をいかにもそういう場所にふさわしくない人間のように感じるのだった。一緒に飲んでいる人間は、大方は大そう場馴れしていて、酌取りの女を相手にうまい軽口を叩いたり、三味線にあわせて渋い喉を聞かせたり、合間に女の手を握ったりする。

 しかし、そんなふうだからといって鶴蔵は、それで足しげく茶屋に通って女の扱いをおぼえたり、端唄を習ったりして、酒席で女にもてたいということを考えているわけではなかった。ただそういうとき鶴蔵の頭をかすめるのは、やりようによっては、こんなふうではない45の自分だってあり得た、というふうなことだった。器用に端唄を唄ったり、何気ないふうに女の指をまさぐったりしている自分がいたかも知れない。そう思う気持には、僅かだが悔恨が含まれていた。

 悔恨は、かりにいま、そういうことを考えても、もはややり直しがきかない場所にきてしまったという思いから生まれた。その気持は、なぜか年々強まるようであった。時にはその思いのために、以前はかがやくようにみえた自分の歩いてきた道が、日がかげったように色あせて見えることさえあった。それは鶴蔵が40半ばになって、行く手に老いと死が見え隠れするのに気づいたせいかも知れなかった。歩いてきた道を、そのまま歩いて行くと、そこに死がある虚しさを見たせいかも知れなかった。


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 「アラフォー」という流行語を待つまでもなく、いつの時代も人生は1回きりであり、未来の先にあるものは死であり、過去の人生を変えることはできず、人間は同じことを悩み続けているものと思います。
 
 ただ、平均寿命が延びたのと情報量が増えた分だけ、江戸時代の40歳と現在の40歳とでは精神年齢や人間の成熟度が隔たっており、捉えている問題の地点が浅くなっているのではないかと想像します。

銀色夏生著 『子どもとの暮らしと会話』より

2011-12-03 00:05:56 | 読書感想文
p.29~

 例えば自分が健康な時は、病気の人を見たら、遠い世界だと感じるし、かわいそうだと思うけど、実際自分が病気になったら、そこでの暮らしが自然に営まれていくんだよね。自分が世界の中心だからさ、自分のいるところが自分の世界なんだよ。世界は自分の周りに広がってるんだよね。


p.125~

 よく巷には、オレも年をとったなあ~なんてガックリと肩を落として寂しそうにしている人がいるが、ああいう人たちって、老化や死がたまらなく悲しく怖いんだろうな。私はどういうふうに老化していくのか、どういうふうに死へとむかっていくのか、興味あるけどな。死に近づく自分がどう考え、どう感じるのか。想像と実際の比較をしたい。老化も死も自然なことなんだから、たぶん嫌なことじゃないと思うんだけど。


p.280~

 ある人と誠実に付き合おうと思い、誠実に対応しようとすると、その態度の中で他の人のことを話さなきゃいけなくて、そうするとその他の人を不愉快な思いにさせるという場合。どうすればいいのだろう。
 たまにある男らしい?人の場合、どちらにも申し開きせずに、誤解されても沈黙を守る。あえて汚名を着せられても、黙って受けるという。でも黙って墓場まで持っていかれると、問題の方はいつまでも解決されないということもある。真実は闇の中。
 複数の人がからむと、それぞれの人の正しさの方向や守りたいものが同じじゃないから、難しいよね。利害がからむと善悪の判断も複雑化する。


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 言葉に敏感な人の言葉は、それ自体が無数の洞察を行間に含んでいて、軽いところでも重みがあり、嘘がないように感じます。私は仕事上、常々「言葉に敏感であれ」との指導を受けてきましたが、それは他者から言葉の揚げ足を取られることの不安に端を発したものであり、内心の自問自答を精密に記述する敏感さとは種類が違います。この言葉への敏感さが、言葉に繊細な人を傷つける場面を私は多く見てきました。

倉橋由美子著 『大人のための残酷童話』

2011-12-01 23:50:20 | 読書感想文
p.221~「あとがき」より

 チェスタトンの言葉を借りるなら、お伽噺こそ完全に理屈に合ったもので、空想ではない、そしてお伽噺に比べれば、ほかの一切のものこそ空想的である、ということになります。お伽噺の世界は残酷なものです。因果応報、勧善懲悪、あるいは自業自得の原理が支配しています。子供がお伽噺に惹かれるのも、この白日の光を浴びて進行していく残酷な世界の輪郭があくまで明確で、精神に焼き鏝を当てるような効果を発揮するからです。

 しかしそういう古いお伽噺を子供が読むことはだんだん少なくなりました。代わって大人たちが子供に読ませたがるのは新作の童話、あるいは「児童文学」といういかがわしい読物で、これは主人公に子供が出てきたり動物が出てきたりはしますが、チェスタトンの言うリアリズム小説を、大人が子供を演じながら書いたもので、そこにはお伽噺とは正反対の世界があります。

 子供っぽい稚拙な文章でくどい描写が続き(ここのところはリアリズムです)、全体はとりとめもなくもやもやした空想の産物になっていて、まるで長い悪夢さながらに退屈です。要するにこれは現代風のつまらない小説の児童版であるわけです。


p.230~ 島田雅彦氏の解説より

 大人は、子どものように即物的に世界に感応する代わりに、世界観を持つ。世界を抽象化する論理や関係を見いだそうとする。その方法の違いのことを人は個性と呼ぶ。世界を抽象化できない子どもには、大した個性はないのである。それは子どもの自我が未熟というのと同じだ。

 しかし、自我の目覚めとともに、世界との戦いが始まる。自分はこうありたいという願望と自分を取り囲む外部の現実は不幸にもそっぽを向き合い、どうやら自分は世界に必要とされていないと思い悩む。その時から、私たちは世界に妥協し、折り合いを求めてゆく。少しでも世界が自分にとって居心地がよくなるように、様々な悪知恵を働かせるようになる。

 世界を変えるなんて所詮は夢だ。それならば、夢の中で世界を変えてやろう、とするだろう。自分がヒーロー、ヒロインになれるような世界を創造してやるのだ。しかし、その世界は何とちっぽけで、何と退屈であろうか? 敵もいなければ、他人もいない。従って恐怖も謎も存在しない。そんな夢の世界は泡の如く消えてなくなり、目の前にはうんざりする現実が横たわっている。現実がちっぽけな自我を飲み込むのである。

 そして、大人になる。自我は現実に敗北する、と相場は決まっているが、負けを重ねて狡知を磨くものだ。いわゆる教訓を身につけ、世界の掟や仕組みを知り、理解に応じて解釈を行い、自分の役割や居場所をその都度、決めてゆく。そして、いつの間にか、世界と敵対していた自我は、現実の残酷と退屈に加担しているのである。


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 架空の人物と実在の人物とを比較し、そこでは他者として同じような対象化が行われていることに気付いた場合、そこには独我論の問題を解く鍵があるように思います。他人の心の中はどう頑張っても見えないにもかかわらず、この世の中には自分と同じような人間が人間の数だけ存在していることを無意識に受け入れているならば、人間はこの問題について何らかの形で解答を与えているはずです。

 人間の集まりを社会と呼び、時代ごとの特質を論じるならば、「お伽噺が読まれなくなった社会」における独我論の問題への解答は、質の悪いものにならざるを得ないと思います。架空の人物が実在の人物に近づいてしまえば、「他人も自分と同じような人間である」という命題と「他人と自分は同じ人間ではない」という命題との均衡の取り方を学ぶ機会が減ってしまうからです。