犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山本周五郎著 『赤ひげ診療譚』

2011-12-08 23:45:35 | 読書感想文
p.216~
 この世から背徳や罪悪を無くすことはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。
 「そんなことは徒労だというだろう。おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終わっているものが多い」と去定は云った。「世の中は絶えず動いている。農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる。それについてゆけない者のことなど構ってはいられない。だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ。いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」。
 人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、おれは自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている。そこまで云ってきて、急に去定は乱暴に首を振った。「おれはなにを云おうとしているんだ、ばかばかしい」。そしてまた髯をごしごし擦った。

p.262~
 貧しい人たちはお互い同士が頼りである。幕府はもちろん、世間の富者もかれらのためにはなにもしてはくれない。貧しい者には貧しい者、同じ長屋、隣り近所だけしか頼るものはない。しかし、その反面には、やはり強い者と弱い者の差があるし、羨望や嫉妬や、虚飾や傲慢があった。そのうえ、いつもぎりぎりの生活をしているため、それらは少しの抑制もなく、むきだしにあらわされるのが常であった。
 いつもは一と匙の塩を気楽に借りる仲でも、極めてつまらない理由、たとえば、こっちへ向いて唾をしたとか、朝の挨拶が気に入らなかったとか、へんにつんとしていた、などというたぐいのことで、いっぺんに仇敵のように憎み出すのである。かれらがお互いに、自分を捨てても助け合おうとする情の篤さは、生活に不自由のない人たちには理解ができないであろう。と同時に、彼らの虚飾や傲慢や、自尊心や憎悪などの、素朴なほどむきだしなあらわしかたも、理解することはできないに相違ない。
 一と匙の塩まで借りあい、きょうだい以上につきあっていながら、死ななければならないという理由は話せない。


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 私は仕事上、生活保護を受けている方々や、いわゆるブラック企業に勤めて虐げられている方々と日常的に接する立場にあり、昨今の「貧困」を肌で感じています。それだけに、「反貧困」という単語には違和感があります。

 「貧困」は抽象的な概念ではあるものの、その何かに反対することにより、その動力はある一方向のみの情念に人間を誘導し、固定化させます。さらに、その情念は政治的にならざるを得ず、誘導された人間は徒党を組み、それに反対する者は敵とみなされることになります。貧困の問題に際して自己責任論がとやかく言われるのは、無意味なことと思います。

 山本周五郎氏は、江戸時代の社会のいわゆる底辺の人々の姿を克明に描いています。1人の人間が限られた人生の中で、その頭の中で考え得ることは、江戸時代も平成も大して変わらないものと思います。但し、政治的な主張にかかってしまえば、封建時代の貧困と民主主義の時代の貧困とは話が違うと一蹴されて終わりかも知れません。