犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今年の漢字「絆」 その2

2011-12-25 00:01:27 | 言語・論理・構造
12月25日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄  
「『絆』は苦難乗り越える根拠」 (東京都・53歳・会社員)
  

 「今年の漢字『絆』に思い複雑」(19日)を読み違和感を覚えた。「絆」が選ばれたことに「痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果」というが、果たしてそうだろうか。

 3月11日には、首都圏でも多くの人が身をもって大震災の恐怖を体験し、家族や仲間の安否を確認することに躍起となった。それを経験したからこそ、「絆」の大切さに気づき、力を合わせて苦難を乗り切っていくためのよりどころとして、この言葉を選んだのではないか。

 痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけているのは私たち生活者ではなく、政府や役人、それに東京電力だと思う。


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 ある人が「違和感を覚える」というとき、それに対して論理的に反論する方法はないと思います。「『あなたが違和感を覚える』ということに私は違和感を覚える」となり、違和感の応酬となるからです。違和感を覚えてしまったものに「覚えるな」と強制することも不可能であり、それが政治的な意見の形を取って正義・不正義の問題となれば、収拾がつかないものと思います。

 今年の漢字ということではなく、人と人との「絆」が良いか悪いかと問われれば、これは良いに決まっています。問題は、この場面における問いの問い方であり、答えの側でなく問いの側を共有しなければ、争っても虚しいばかりです。福岡県に住む投稿者が死者と行方不明者に思いを馳せ、東京都に住む投稿者が自分の経験から結論を出しているのであれば、そもそも議論になっていないと感じます。

 今年の4月22日、日本の7歳の女の子がイタリアのテレビ番組でローマ法王に対し、「なぜこのような怖くて悲しい思いをしなければならないのか」と質問したことを思い出します。これは、大人が封印している問いであり、しかも逃げている問いです。神が存在すればこんな悲しいことは起こさないでしょうし、少なくとも震災が起きる前に教えてくれるはずでしょうし、震災が起きてから冥福を祈るような神は不要だからです。

 ローマ法王ベネディクト16世の答えは、「私も自問しており、答えはないかもしれない」「私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」というものでした。ローマ法王が自問し、答えがないというのであれば、「絆」が苦難を乗り越える根拠であるはずがないだろうと思います。人が何に対しどのように違和感を覚えるかという点は、生死に関する日常からの思索の深さによって異なっており、震災の受け止め方の問題ではないとも感じます。