犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

谷原誠著 『現役弁護士が書いた 思いどおりに他人を動かす交渉・説得の技術』

2011-12-11 23:51:13 | 読書感想文
p.164~

 私は、今は民事事件が中心だが、昔はよく刑事事件も扱った。傷害事件や強姦事件のように相手がある事件は、被害者と示談できるかどうか、が被告人の量刑を左右する大きな要素となる。したがって弁護人は、被害者との示談に大きな力を注ぐ。私が刑事事件を担当したときも、もちろん示談に全力を注いだ。そして、ほとんどの事件で示談を成立させることができた。
 ある強姦事件を扱ったときのことである。加害者の親が、被害者に謝りに行こうとしたが、被害者は絶対に会いたくないと言っており、厳罰を望んでいた。強姦事件は、女性の心にぬぐいがたい傷を残し、その傷は一生残る。結婚生活にも影響することがあると言う。そのことから考えると、示談などとんでもないということだろう。

 しかし、そのような状態であっても、事件を引き受けた以上、被害者との示談を進めなければならない。通常の示談はどうするかと言うと、「このたびは被告人があなたに多大なご迷惑をおかけしました。被告人に代わってお詫び申し上げます。本日は、示談金をお持ちしました。少ないとは思いますが、これが精一杯です。何とか示談にしていただけないでしょうか。被告人には病気の母親がいて、今刑務所に入るわけにはいかないのです」というパターンである。
 これでも、示談が成立することはあるだろう。ただ、これは加害者側の論理である。被害者の側の事情はいっさい考慮していない。これを聞いた被害者はどう思うだろう。「何て身勝手な加害者だろう。犯行も身勝手なら、逮捕されてからも反省せず、こんな身勝手なことを言っているのか」。強姦事件の被害者は心に深い傷を負っており、多少の金を積まれたとしても、とても示談には応じないだろう。

 私は、示談を進めるにあたっては、完全に被害者の心にスポットをあてるようにしている。強姦事件の被害に遭った被害者がどのような恐怖を味わい、その後、現在までどのような気持ちで夜道を歩き、男性と接しているか。完全に感じることは無理だが、可能な限り共感するようにしている。
 そして被害者の立場に立ち、今、被害者ができることは何かを、法律家の観点から話をする。被告人が犯した犯罪についてはしかるべき刑罰を受けるべきだが、それは、被告人と国家との問題であり、被害者には関係がない。被害者は、心に受けた傷をどうやって癒し、事件を忘れ、将来にしこりをのこさないようにしていくかが重要である。事件を、被告人の問題としてではなく、被害者自身の問題として焦点をあてるのである。

 私は被害者と話をする際、そのような観点から話をするようにしている。そうすると結局、被害者としても事件のことは早く忘れ、一刻も早く立ち直ることが先決ということになる。


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 現役弁護士が書いたこの本を通して読んでみると、犯罪被害者との示談交渉について述べたこの部分だけが浮き上がっているように見えます。他の箇所は、どこも腹黒い腹の探り合いを打開する方法論が書かれており、頭脳を駆使して臨機応変に相手の出方を待つ独特の緊張感が克明に記されています。
 私の狭い経験の中でも、交渉の場で上手に出るか下手に出るかの選択を間違えて大怪我をしたことがあり、この嗅覚を磨くことはビジネス社会で潰れないための最低条件とも思えます。百戦錬磨の敵を相手にするには、ある時は開き直り、ある時は相手の弱みにつけ込み、またある時には泣き落としに入り、ある時には他人になりすますなどして、心理戦で先に消耗しないように身構えておく必要があります。

 ところが、犯罪被害者に関するこの部分の記述だけ、魑魅魍魎の中に突如として聖人君子が現れたような印象を受けます。典型的なビジネスの場面では必要悪が必要悪として奨励され、他人の痛みや苦しみに鈍感になることが暗黙のうちに許容されていたのが、犯罪被害者に対する示談交渉の場面だけは痛みや苦しみへの敏感さに価値が置かれています。これは、交渉相手との互換性が薄いことに伴うものと思われます。
 弁護士の犯罪被害者との交渉は、下手に出るものと最初から決まっています。すなわち、上手に出るか下手に出るかの駆け引きという最大の緊張から逃れています。これは最初から負けているということであり、かつ最初から勝っているということです。すなわち、「お気持ちはわかります」と繰り返すのが決まりであり、被害者の言葉には正面から反論してはなりません。商談の仁義なき現場のように頭をフル回転する必要はなく、頭を下げ続けるのが原則だということです。

 谷原弁護士が述べるとおり、示談交渉に臨む弁護士の多くは、真剣になるあまりいつの間にか必死に加害者側の論理を力説しているという陥穽にはまっているものと思います。その意味では、谷原弁護士の洞察は間違ってはいないと感じます。ただ、最後の最後に論理が裏返っているため、全ての話が逆になっており、しかも弁舌の巧みさによって論者自身が懐柔されているように思われます。
 頭の回転が速い弁護士と傷を負った犯罪被害者とが向き合えば、最初から勝負はついています。そして、犯罪に伴う示談交渉は一般のビジネスと違って勝負事ではないため、事態はより見えにくくなるように思います。頭が切れる者の言語能力は、巧みに言葉をずらして相手を誘導する能力に通じます。絶妙のタイミングで「それが本当にあなたのためになるのでしょうか」との問いを発し、外堀を埋めていけば、何だかわからない間に話がどんどん決まっていくことになります。

 私自身の経験からですが、ビジネス社会の第一線で奔走し、論理と客観性を重んじる法律家は、情に訴える場面を一段下の仕事と評価せざるを得ないのが通常のことと思います。すなわち、犯罪被害者に向けられる視線は敬意ではなく、上から目線です。被害者の心にスポットを当てるのは、あくまでも弁護人が加害者のために有利な量刑を導くための手段です。これは刑事弁護人の職務上当然のところであり、かつ偽善性や欺瞞性が集中している部分です。
 被害者側の論理を押し進めるならば、弁護人は「一刻も早く立ち直ることが先決である」とは断じて言えず、余計な口出しは不要となります。加害者の被害者に対する最大の誠意の示し方は、賠償金は支払うものの示談書は交わさず、被害者が賠償金を受け取ったことを裁判所に報告せず、かつ内心では反省の意を持ちつつそれを法廷では述べず、自身を厳罰へと誘導することです。偽善性や欺瞞性を可能な限り払拭するには、このような本筋は否定できないものと思います。

 法律家の職業病として、法律論以外の言葉の行間が読めなくなるという問題も大きいように感じます。例えば、「強姦事件は女性の心にぬぐいがたい傷を残し、その傷は一生残る」と述べたとしても、法律家においてはその言葉がそのまま鍵括弧に入ってしまい、一般的な意味が通じないということです。
 傷が一生残るということは、その時の光景が画面として脳裏に焼きついて細部まで鮮明に思い出すことが可能であり、しかもその後の思考すべてが時間の先後の法則に従って玉突き的に規定されており、永久に取り返しがつかないという絶望と戦慄を常時伴うはずのものです。そして、その周囲の者は、現にそのような人生を生きている者に対する畏怖を持たざるを得ないはずです。ここでは、「傷は一生残る」という命題と「一刻も早く立ち直る」という命題が両立する余地はないように思われます。

 犯罪被害者との示談交渉に関する弁護士の叙述が自己欺瞞を逃れているかの試金石として、示談が成立した数や確率を誇っているか否か、という点が挙げられると思います。すなわち、「ほとんどの事件で示談を成立させることができた」と言い切ってしまえば、後に示談したことを後悔した被害者の存在は眼中から排除されます。実際のところ、多くの事件を流れ作業でこなしている弁護士は、昔の事件の被害者のことは記憶の端にも上らないのが通常のことと思われます。
 谷原弁護士の上記の論述は、犯罪被害者との示談交渉に苦しんでいる多くの弁護士の助けになるものと思います。但し、被告人が強姦の公訴事実を否認しているときには、被害者を証人として法廷に呼んで当日の出来事を根掘り葉掘り細かく聞いて争うことになるため、被害者の心にスポットをあてる方法は役に立ちません。また、保釈を求めて争う場面では、憲法の「人身の自由」の前には被害者はどこかに飛んでしまうため、やはりすべての場面を包括する万能の論理になり得ることはないと思います。