犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

医療過誤の裁判を担当しながら医者にかかるのは心苦しい

2009-09-15 23:55:07 | その他
私のかかりつけの医師が、医療過誤の裁判を起こされて困っていると嘆いていました。「患者さんのためを思って一生懸命やっているのに、思い通りの結果にならなかったというだけで抗議されることが多くなった。しかも、患者さんと家族が集団で押し掛けてきて、強引に説明を求めることもある。最近のマスコミの医師に対するバッシングは厳しく、医師のほうはうっかり本音も言えない。この裁判についても、医師として最善を尽くした結果であることは疑いなく、どう考えても医療過誤ではない。この裁判のせいで余計な時間を取られて、結果的に他の患者さんに迷惑をかけてしまっている・・・」。

かかりつけの医師は、私が数件の医療過誤の裁判で患者側に付いていることを知りません。ですので、雑談の中で誰が聞いても納得してくれるはずの話をして、同情と激励の返答をもらうという認識しかありません。私も社会の儀礼に従って、「そうなんですか。大変ですね」「最近は患者エゴがひどいですからね」などと言って適当に話を合わせています。その時、頭の中はゴチャゴチャになり、人格が分裂した感じになっています。いくつもの医療過誤の裁判を担当し、いくつもの病院やクリニックを訴えていると、「医師=悪」という価値判断で頭を固めておかないと、まともに仕事ができなくなってきます。そして、かかりつけの医師が何を語っても、その言葉に共感することはできなくなっています。

私が担当している数件の医療過誤の裁判における医師は、看護師との連携不足、カルテへの不正確な記録、患者や家族への説明不足、検査結果の見落としや見間違えなど、明らかに医療過誤があるように見えます。しかも病院側は裁判において、死者に鞭打ち、遺族の追悼の感情を逆撫でするような主張を堂々と繰り返してきます。「原告は、家族の死に直面して冷静な判断力を失い、何の落ち度もない病院を逆恨みし、敵意をむき出しにして事実を歪曲し、病院に対して法外な金額を請求しようとしている・・・」。このような準備書面を出されてしまえば、こちらも黙っているわけには行きません。正義は必ず勝つ。医療過誤を隠蔽しようとする巨悪は暴かなければならない。そのためには医師や看護師を徹底的に個人攻撃しなければならない。そして、いくつもの準備書面を集中的に仕上げるためには、日常生活全般を通じて、「医師=悪」という常識の中で生きることが不可欠になってきます。

私はかかりつけの医師の話を聞きながら、無意識のうちに、事態をある構造の中に押し込もうと試みていました。すなわち、自分が担当している裁判は医師のほうに落ち度があり、裁判を起こした患者が正しい(医師=悪、患者=善)。これに対して、かかりつけの医師には全く落ち度がなく、裁判を起こした患者のほうが間違っている(医師=善、患者=悪)。自分がこのような是々非々の対応をしようとしていることは、非常に人間的であるように思えました。しかしながら、このような線引きが可能であると仮定することそれ自体が、善悪二元論を前提に、自分は必ず善の側に立っていることを保障するものである以上、単なる自己欺瞞であることは明らかでした。いったん医療過誤の有無が正面から争われ、裁判になってしまった以上、双方が自らを善であると主張し、相手方を悪であると主張することは避けられないからです。

私はなぜ原告側に立ち、患者や遺族の方々と共に涙を流しつつ、あちこちの病院に乗り込んで証拠保全をし、難しい文献をひっくり返しながら、厳しく医療過誤を追及しているのか。それは、医師が自らの過ちを認めずに事実を隠蔽し、患者が泣き寝入りさせられることは、明らかに社会正義に反し、絶対に許すことができないからです。そして、これが私にとって絶対的な正義である理由は、たまたま患者側に立って医療過誤を追及する方針の法律事務所に採用されたからです。弁護士会の求人票には、そのような点までは書いてありません。もしも、病院側の顧問の事務所に採用されていたならば、事態は全く逆になっていたことと思います。その違いをもたらしたものは、面接の日程かも知れませんし、前任者の退職時期かも知れませんし、来客によって電話が遅れたことかも知れません。そして、世の中の多くの人の「絶対に譲れない信念」や「唯一の正義」は、実はこのように成り立っているのかも知れないと思います。