犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「容疑者」と「被疑者」

2009-09-24 00:48:27 | 言語・論理・構造
法学部の刑事訴訟法の授業で、答案に「容疑者」などと書いたら、それだけで単位はやらないと言われたことがあります。法律を専門に学ぶ者として、答案でこのような単語を使うことはあまりに恥ずかしく、イロハのイも解っていない証拠とのことでした。刑事訴訟法には「被疑者」という文字は沢山ありますが、「容疑者」という文字は1つもありません。他にも、刑事訴訟法には「被告人」という文字は無数に出てきますが、「被告」という呼び方はありません。そして、これらの法律の条文に規定のない用語は、現場の実務では一切使用されない不正確な呼称であり、マスコミによる新しい造語という意味で、「マスコミ用語」と呼ばれています。刑法学会や法曹界では、以前からこの「マスコミ用語」の存在に対する違和感と苛立ちのようなものがあり、「なぜ法律上の用語とわざわざ違った用語を使うのか」という問いが立てられているのを耳にします。しかしながら、なかなかスッキリとした解答は出ていないようです。

私も、刑事訴訟法に「容疑者」という文字がないことを知った当初は、何でマスコミは法律の条文の通りに「被疑者」と言わないのか、不思議に思っていました。そして、新聞やテレビでそれらの用語を目にするたびに、なぜこれほど不正確な俗語が流布しているのか、理由を知りたいと思いました。それは、一種のエリート意識を伴っていたのかも知れません。その後、法律を離れて言語哲学の本を読んだ時に、自分なりの答えは出ました。まず、ソシュールの言語観により、言語はシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)の不可分の結合関係によって成り立つシーニュ(記号)だとすれば、「マスコミは『被疑者』のことを『容疑者』と呼んでいる」ことを大前提とする限り、両者において一般的に抽象として把握されている概念は一致しており、シニフィエは同一であると思われました。そして、ここで問題になっているのは、このシニフィエと「被疑者」及び「容疑者」との結びつき、すなわち記号システムの全体(ラング)の捉え方なのだと思いました。

犯罪の疑いをかけられた人を「被疑者」と呼ぶか「容疑者」と呼ぶかは、言語が恣意性を持った記号体系である以上、どちらの言語によって切り取っても正誤の問題は生じません。そして、言葉の意味は個々の主体の把握作用であり、語彙の概念も人それぞれであって、しかも文脈次第である程度の広がりと逸脱も許容される以上、ある言語が正確にある概念を内包することもありません。そうすると問題は、民主主義国家の条文によって呼称を「被疑者」と定めた場合の実際の効果です。果たして刑事訴訟法の条文は、「容疑者」という呼び方は本当は不正確であり、非公式な造語であると断定するだけの力を持つのか。その答えは、「容疑者」という言葉が日本社会で広く使われ、日本語を話す人々において広く意味が理解されているという現実において、明らかであるように思われました。ウィトゲンシュタインの前期から後期への転向が、言語が文法的に不完全・論理的に不整合であっても意思疎通が可能であるという事態によって促されたのだとすれば、この場合にも同じことが言えると思います。すなわち、「マスコミは『被疑者』のことを『容疑者』と呼んでいる」ことを問題にするならば、「容疑者」が「それ」であることを認めてしまっているので、語るに落ちているということです。

民主主義国家における国民の意思として法律を作り、その条文によって呼称を正確に「被疑者」と定めたとしても、「犯罪の疑いをかけられた人」のシニフィエと「容疑者」のシニフィアンの結合は、実際にはビクともしていません。すなわち、記号システムの全体(ラング)として、法律の規定はその程度の力しか持っていないことが明らかになっています。さらにハイデガーによれば、このような抽象概念は、実存の語りによってそれぞれの世界を分節していることになります。実際に、1人の人間が一生の間で客観的宇宙を見渡すことはできず、人は自分の関心・配慮・気遣いによって捉えられた日常世界を見回すことしかできません。従って、刑事訴訟法のテキストや六法全書によって初めて「被疑者」という抽象概念を把握し、「容疑者」がマスコミの造語であることを知るのであれば、「被疑者」という言葉を使う者は、自分は法律の素人ではないのだという実存的な契機を有することが避けられなくなります。私は、自分なりにこのように答えを出してから、「『マスコミ用語』という用語」それ自体が法曹界の業界用語のようになっているように思えて、マスコミ用語に対する違和感はなくなりました。