犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

思考停止

2009-09-18 00:36:44 | 言語・論理・構造
「近年は、犯罪被害者が持ち出されれば誰も反論できなくなる」。「被害者の気持ちを考えろと言われた途端、人は思考停止に陥ってしまう」。このような言葉を、大学院で刑事訴訟法の学者からよく聞きました。実務に就いても、弁護士の仲間内の会話でこのような嘆息の言葉をよく聞きます。恐らくこれが、法律の世界でずっと生きてきた人々、あるいは現に生きている人々の偽らざる本音だと思います。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムからは、代用監獄の廃止、人質司法の改善、死刑廃止、取り調べの可視化という方向性が絶対的です。そこに近年、「犯罪被害者」「犯罪被害者遺族」という特権的な地位を持った人が現れて、反論の許されない聖域が作られてしまった。このような流れに非常に苛立っているというのが、最近の刑事訴訟法学者や弁護士会の本音だと思います。気が進まないながらも、犯罪被害者の保護や救済に取り組まなければならなくなった。「思考停止」という言葉に、あるべき思考の流れが邪魔されているという、何とも言えないもどかしさが表れているように感じます。

あらゆるパラダイムは言語による構成物である以上、論理や文脈による流れを持ち、ゆえに流したいところは最初から決まっています。この流れに全く違う流れがぶつけられ、その論理の存立が根底から危うくなったとき、そのパラダイムは思考停止に陥ります。その意味では、あるパラダイムと別のパラダイムが相容れない状態で土俵の中心を奪い合っている状況では、いずれのパラダイムもその筋を外される可能性を持っており、思考を停止させられる弱点を常に抱えているということになります。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムを守り切り、そのパラダイムが思考停止に陥らないためには、犯罪被害者に対して次のような囲い込みをするしかありません。「厳罰化は犯罪被害者のためにならない」。「厳罰によって、被害者はますます自分を苦しめることになる」。「怒りや恨みからの解放のため、被害者の心のケアこそが本当に必要なのである」。このような言い回しには、特権的な聖域を侵さないように注意しつつ、自らのパラダイムの維持にとって障害となる声を何とかして抑え込まなければならないとの切迫感があります。

出自を全く異にする複数のパラダイムにとって、他のパラダイムが思考停止をもたらすことはお互い様です。「犯罪被害者が持ち出されれば人は思考停止に陥る」というのであれば、それはそのパラダイムが元々そのような弱点を持っていたのであり、そのパラダイムを信奉している人だけが思考停止に陥るということです。そして、それが近年の現象であるとするならば、それによって他のパラダイムがずっと抑えられていたことをも示しています。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムの原動力を一言で言えば、「死ぬに死ねない怒り」だと思います。それは、無実の罪で逮捕され、警察官や検察官に強引な取り調べを受け、裁判官にも犯人と決め付けられ、挙句の果てに死刑を執行されてしまった、このような事例において頂点に達するものです。このようなパラダイムから犯罪被害者を見ると、同じように、被害者は加害者に対して「死ぬに死ねない怒り」を有しているように見えるはずです。加害者は何としても厳罰に処されなければならない、そして死刑にしなければならない。しかしながら、実際の犯罪被害者からは、多くの場合、そのような怒りは表現されていません。表現されているのは、「生きながら死んでいる哀しみ」、あるいは「体内の深い所から力を抜き去られた状態」とも言うべきものです。

「私の娘が殺された日に、私のすべての世界が崩壊しました。なぜ今生きているのか、不思議なくらいです。一生救われることはありません。あの日、全てが終わればいいと思いました。今でも、何を見ても破壊したい衝動に駆られます。常に爆弾を抱えて生きています。いや、私は生きていません。ここにいるのは人間の抜け殻です。私は娘と一緒に死にました。今でも、世界中の人が同じ目に遭えばいいと思っています。しかし、いつもそう思っているわけではありません。ですので、『二度と同じ思いをする人がいなくなってほしい。そのために、犯人は自らの命をもって罪の償いをしてほしい』と切に願っています。私が事件の直後に娘の後を追わず、今日まで生きてきたのは、裁判の結果を見届けるためです。今でも自分が生きていていいのか、自信がありません。死刑判決は、1つの区切りになると思います。しかし、犯人が死刑になっても、娘は帰ってきません。ですので、私にできることは、犯人の死刑を確実に見届けることだけです・・・」。このような繊細な心の襞を追うことにより、経験者でない者が思わず絶句してしまうことは、「思考停止」ではありません。他方、このような繊細な言葉を聞いても、「心のケアによって被害者遺族の厳罰感情を和らげなければならない。死刑では遺族は救われない」との結論しか出てこないのであれば、それは「思考停止」だと思います。

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2 コメント

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Unknown (DH)
2009-09-24 16:22:58
こんにちは。

「国家権力から市民の人権を守る」こと自体は正しいことだと思いますが、その図式にのみ囚われてしまうと、犯罪被害者(遺族)の発言や行動が目障りで忌々しいもののように思えてくるのでしょうね。
素人の見方かも知れませんが、どうも

被害者(遺族)の側に立った発言・行動=安易に応報感情に同調した感情論
加害者(被疑者・被告人・受刑者)の人権擁護=理性的冷静な態度

のような捉え方があるように思います。でも加害者の人権擁護と被害者の支援・救済とは本来矛盾するものではないと思うのですが、どうなんでしょう?

「思考停止」と言えば、死刑廃止を巡る議論でよく聞かされる「死刑廃止の滔々たる世界の大潮流」「国連自由権規約委員会の勧告」「欧州連合(EU)議長国声明が云々」等もその一例ではないかと思います。
思わず「エンドレステープレコーダーみたい。他に言うことないんですか」と突っ込みたくなりますね(笑)
多分「おまえの言っていることは感情論に過ぎない」という答えが返ってくるのでしょうけれど。
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遅くなってすみません。 (某Y.ike)
2009-10-06 00:11:09
最近ブログを書く時間がなくて、遅くなってすみません。コメントを頂いてから、もう15日も経つんですね。驚きました。すみません。

DHさんのご指摘は、私がずっと考えても上手く答えが言葉にならないところそのものなので、いつか1つの記事にしたいと思います。
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