犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岸本葉子著 『がんから5年』

2009-09-22 21:03:34 | 読書感想文
p.132~

がんを通して、現代医学の達成と限界に接すると、代替または対極をなすものへと、行きがちだ。構図としては、精神世界というジャンルが台頭した状況と、似ている。科学とテクノロジーの発展によってもなお、解決できない問題があると気づいたとき、もうひとつの智慧に、傾倒するのと。「だからこそ、注意深くあらねば」と、自分に言い聞かせてきた。

科学や近代合理主義の基本をなすのは、扱う対象と自分とを「分ける」態度である。がんを告げられたとき、私はまさにその態度をとった。自分の体に起きていることを、認識主体である「わたし」と、できるだけ切り離して、客観的にとらえ、判断を下す。それは少なくとも、短期間に意思決定しなければならない治療までは、有効だったと思う。けれども、治療後も治ったかどうかわからないのが、がんだ。いつまた再発進行し、余命がわずかに限られるかもしれない不安が、長期にわたって続く。

不安と向き合うにあたっても、治療までと同じ方法を適用しようと試みた。自分の体に起きたことに対して、そうしたのと同様に、自分の心に起きていることも対象化して、認識主体たる「わたし」の制御下におこうと。体についての科学が医学なら、心についての科学である、心理学をあてはめて。おおむねそれは、功を奏した。禅に興味を持ったのも、心理学的メソッドのひとつとしてだ。宗教に接近しているつもりはなかった。心頭滅却すれば火もまた涼し、という。そのような動じぬ心、平常心を保つ、私の知らない別な処しかたがあるのだろうか、と。

般若心経の真の醍醐味、というか、私にとって核心をなす体験は、そのように暗記したものを、声に出すところにあった。ちょっとでもよけいな考えが頭をよぎると、とたんにつかえる。そうでないときは、自分が一本の管になり、ひとつづきの音が、通り抜けていく感覚になる。玄侑宗久さんによると、それこそが「わたし」がない状態という。判断も予測も、目的的あるいは因果的な思考も働いていない。日頃は、思考する「わたし」を、自分のすべてと思い込んでいる。でもそれは、もっと多様な広がりを持つかもしれない自分を、狭く限定してしまうことでもあるのだ、きっと。


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裁判員制度の開始と前後して、「あなたは死刑を言い渡すことができますか」という問いが広く聞かれるようになり、あっという間に消えてしまいました。この問いが不毛だったのは、科学や近代合理主義では説明がつかない「死」を問題にしていたにもかかわらず、扱う対象と自分とを「分ける」態度を前提とし、その上で問いを立てていたことが原因だと思います。

殺人罪や死刑といった「死」を考える際には、やはり自分自身が突然末期がんで余命3ヶ月と宣告された時のような、絶望的な緊張感がなければならないと思います。それは、がんでない間はがんになった時のことがなかなか想像できずに挫折することかも知れませんし、何かの拍子に上手く想像できてしまって足元が崩壊することかも知れません。