犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある弁護士の苦悩 その2

2009-09-09 00:04:53 | 実存・心理・宗教
その夫婦は、見るからに体全体がやつれており、表情にも全く生気がなかった。自己破産の法律相談に来たにもかかわらず、2人ともなかなか口を開こうとせず、視線も泳いでばかりで落ち着かない。一見して、危険な状態にあることが察知できた。彼が色々と質問を工夫したところ、ようやく男性のほうが小さな声で話し始めた。「息子が会社でいじめられて、1年前に自殺しまして……」。女性も徐々に話し始めた。「労災を申請したんですが認められなくて、裁判を起こす気力も湧いてこなくて……」。彼には、「はい」と答えて大きくうなずき、意図的に沈痛な表情を作る以外の行動は思いつかなかった。そして、自分自身の偽善が情けなくなると同時に、地獄は淡々と語ることによって地獄でなくなり、それが同時に地獄の所在を示すのだなと思った。

夫婦は、封印してきた記憶が一気に解放されたかのように、彼がメモを取る余裕もないスピードで代わる代わる話し出した。息子の死後、2人とも鬱状態になってしまった。そんなある日、新興宗教の団体から電話があった。曖昧な返事をしていると、信者が数人で自宅まで勧誘に来た。信者の話は、絶望の淵にある自分達には救いに感じられた。先祖の供養をおろそかにしていたのが悪い、息子の名前の画数が悪いから命を落としたのだ、このままでは成仏できないなどと言われて、最初は非常な反発を覚えたが、信者達の真剣な表情と語り口に接して、それは探していた答えなのかも知れないと思った。嘘でもいいから、この答えに賭けてみようかと思った。その時、なぜか鬱状態が軽くなった。夫婦で消費者金融からお金を借りて高額な印鑑を買い、壺を買った。息子のために色々な物を買ったが、ついにお金がなくなって買えなくなり、借りたお金も返せなくなってしまった……。

彼は、延々と続く夫婦の話を聞きながら、話を遮るタイミングを図りかねていた。話は大体わかった。これ以上詳しく聞いていると、完全に時間がなくなる。カウンセリングは精神科医の仕事であり、自分の今回の職務ではない。夫婦は自己破産手続を依頼しているのだから、そのために最善を尽くすのが弁護士の義務である。彼は、確実に自己破産が認められるための免責不許可事由の有無を、裁判所の書式に従って愚直に聴取し始めた。「奥様は買物依存症になって浪費したことはありますか」。「ご主人は風俗にはまって大金を使ったことはありますか」。「お二人は、競馬、競輪、競艇、パチンコ、麻雀は好きですか」。「株式投資や商品先物取引に手を出したことがありますか」。彼が定型的な質問をするたびに、「いいえ」と答える夫婦の顔は徐々に険しくなっていった。そのうちに、露骨に不快そうな表情を見せて首を横に振り出し、今にも叫びだしそうな雰囲気となった。彼は、もはや限界だと思った。

本来であれば、「回収できる債権はありますか」といった質問事項がまだ続いていた。弁護士は事前にこれらの事項を詳しく聴取して、裁判所に報告しなければならない。借りたお金は返さなければならないという近代社会の基本を、国家権力によって反故にするのであるから、厳しい要件が求められるというのがその理由である。もし夫婦がその新興宗教の教団を詐欺で訴えて、代金が返金されるようであれば、自己破産よりもそちらの裁判をしなければならない。しかしながら、彼は一人の人間として、この点を問いただすことができなかった。夫婦は、その教団から詐欺に遭って不必要なものを買わされたと認めるのかどうか、繊細なところで苦しんでいる。すべては息子のために買ったものであるから、教団から騙されたと認めても認めなくても、その先にあるのは、息子の死に直面しなければならない絶望である。両親は、教団を訴えるために弁護士のところに来たのではなく、自己破産をするために来ているのだから、答えは明らかではないか。

裁判所による審尋の日が来た。いかにも聡明そうな裁判官は、書類にざっと目を通すと、夫婦に対して冷徹な口調で次々と質問を浴びせた。「何で、こんな何百万の借金をするまで商品を買ったんですか?」「常識的に途中でおかしいと思わなかったんですか?」。夫婦は必死の形相で、問われたことに誠実に答えようとした。「息子のためでした」。「疲れ果てていました」。「追い詰められていました」。裁判官は納得できないという様子で、最後の質問をした。「それであなた方は、今もその教団を信じているんですか?」。夫婦が答えられないでいると、裁判官は代理人弁護士である彼に向かって厳しく述べた。「このままでは破産は開始できません。資料を補充してください。今も信じているのかいないのか、態度を明確にさせてください。詐欺に遭ったことを認めるならば、内容証明を送って、債権回収に努めたことの証拠を提出してください」。彼は、弁護士を辞めるか、人間を辞めるかの選択肢を突きつけられたように思った。


(フィクションです。)