犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―生存充実感への欲求」より

2009-09-03 00:27:34 | 読書感想文
p.54~

生命の流れを助けるものといえば、感情の面ではなんといっても前にのべたよろこびであろう。そのよろこびも常にきわだった形をとるとはかぎらず、平凡な日常のなかでの、しずかな、しかし新鮮なよろこびもある。その源泉はいろいろありうるが、なかでも仕事や労働というものがどんなに大きな役割を持っているかも知れない。それはすでに多くのひとがくりかえしのべて来たところなので、ここでくわしくいうまでもないであろう。

ふつうの健康の持主が、朝おきて、その日、自分のなすべき仕事は何かわからない、というような状況にあるとすれば、それだけでも生存の空虚さに圧倒されるにちがいない。社会生活の上での失業はもちろんのこと、精神生活の上での失業はこの点でなお一層大きな不幸である。

活動性にとんだひとは、平生のつとめのほかにもいろいろと仕事をつくり出し、他人との関係もたくさん結び、毎日いそがしくとびまわることにすがすがしい生存の充実を感じる。それはスポーツにも似た健康なエネルギーの駆使である。そういうひとは、たえずとびまわっていることが、平常の「生存感」になっているから、ちょっとでも活動をやめると自己の生を空虚に感じてしまう。それでますます一瞬の隙もないように、活動へと自らを駆りたてることになる。


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ここのところ、弁護士事務所の仕事が非常に忙しいです。万引きの常習犯のために弁償に奔走し、痴漢の常習犯のために被害者に頭を下げて回り、飲酒運転の常習犯のために嘆願書を集めて走り回っています。被告人の家族からは、保釈が取れないと弁護過誤だと責められる恐れがあるため、とにかく必死です。多額の着手金をもらって仕事を任されているお客様に対しては、「もっと被害者のことを真剣に考えて罪を反省して下さい」とはなかなか言えません。大量の案件を次から次へと流す過程では、軽薄な反省文や謝罪文をスラスラと代筆することが求められ、この文脈においては厳罰を求める被害者の声が「妨害」と感じられることもあります。保釈が却下されて準抗告となれば、残業が増えて帰りが遅くなるからです。

私の現在の状況は、皮肉なことに、神谷氏の述べるところの仕事や労働による生存充実感に満ちています。保釈が認められて大喜びし、涙を流して感謝する被告人の家族を前にしたとき、仕事の達成感は頂点に達しています。これは、自分の仕事が痴漢の常習犯や飲酒運転の常習犯を増やす片棒を担いでいるという現実を直視しないように作用しています。ここを直視してしまえば、神谷氏の述べるとおり、「自分のなすべき仕事は何かわからない」という生存の空虚さに圧倒される恐れがあるからだと思います。これは、厳罰を求めることが仕事である検察官や検察事務官も同じでしょう。被告人のほうにもそれなりの理があり、刑務所に入れてしまえばその家族がどんなに悲しむことかと考え出してしまえば、精神生活の上での失業に転落することは避けられないのだと思います。

仕事がシステム化して人間がそれぞれの役割を与えられた社会においては、一人の人間は、とてつもなく大きな渦の中に巻き込まれて流されるようです。私も思考停止寸前でもがいています。