犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第11章

2008-02-13 23:06:58 | 読書感想文
第11章 人権の正体

犯罪者は歴史上、あまりにも虐待されていた。そこで法の支配が行きわたると、今度は彼らの人権が強調され、次第に絶対視されるようになる。こうして、人権=犯罪者の権利という奇妙な図式ができあがってしまった(p.109)。簡単に言えば、現在の人権論とは以上のようなものである。この単純な事実を認めるのはあまりにも情けないため、責任のある立場の人間から正面からこのように語られることは少ない。しかし、責任のない中嶋氏からは何とでも語ることができる。

中嶋氏の提唱する新人権主義は、別にこれまでの人権論を根本から否定するものではない。単に、今まで気付かれなかった視点に気付いて、絶対的な真理を脱構築したまでである。「人権とは国家に対する権利であって、加害者と被害者の間を律するものではない、だから被害者が見落とされるのもやむを得ない」、これが従来の人権論である。これに対して、新人権主義は次のように述べる。「人権とは国家に対する権利であって、加害者と被害者の間を律するものではない、だから被害者の前では加害者の人権自体が無力化する」。すなわち、被害者個人との関係では、加害者の人権の不可侵性は意味を持たない。そして、被害者救済のための強制手段であれば、犯罪者の人権は法的障害にならない。

ここで、真の人権論は果たして加害者保護の法体系(旧人権主義)なのか、それとも被害者救済の法体系(新人権主義)なのかと争ってしまっては、例によって平行線である。人権の正体というからには、「人権」という概念には「人権」という意味があり、「人権」以外の意味はない。人間がお互いの意見が理解できないと言って争うのも、そこに意味が存在するからであり、その意味が理解できているからである。すなわち、人間が「人権」の言葉の意味を作っているわけではない。どちらの人権論も正しいし、どちらの人権論も正しくないのだから、争っても無駄である。

法律は客観性を求め、法律家も客観性を求める。そこでは、物理的世界が先に存在していて、人間がその中で生存するための手段として言葉を発明したという言語観が前提とされざるを得ない。しかしながら、何かを見てそれだと言えるためには、それの意味が先に在って、在ることを知っているのでなければ不可能である。すなわち、物理的世界ですら、意味が存在しなければ存在しない。従って、物理的世界の客観性を前提としている従来の人権論が、「被害者の人権」という表現にアレルギーを持ち、そのような人権論は正しい人権論ではないと主張することも、当然と言えば当然である。被害者救済の法体系(新人権主義)がこのようなアレルギーにいちいち反論する筋合はない。

やっぱり生死とは言葉である

2008-02-10 15:21:28 | 言語・論理・構造
どんなに自然科学が発達しても、それに伴って社会科学が高度に専門化されても、最後の最後に哲学的な領域が残される。それが「言葉」である。言葉は、科学によって分析される物理的な物ではない。哲学が死の練習であり、すべての人間の生死そのものをその守備範囲としている事実も、この言葉によって言葉自身を問うている自己言及の構造に基づく。哲学の本質が専門的な学問ではなく、すべての人間が生きることそのものである事実も、この「『言葉』という言葉」に依存している。「生」は言葉であり、「死」も言葉である。「在る」も「無い」も「過去」も「未来」も言葉である。そのように考えている人間の脳を解剖したところで、そのような物理的物はどこにも発見できない。

プラトンは、この「言葉」によってリアリティをもたらす世界をイデア界と称した。どこか別の世界に本当の三角形がある、そんなおとぎ話ではない。人間は目の前に三角形がなくても、三角形が何たるかが理解できる。ここに「△」という図形があって、その後で目をつぶっても、その「△」を思い浮かべることができる。実際に街中で「止まれ」や「徐行」の道路標識を見れば、それが三角形だとわかる。イデア界は、これらの端的な事実の中にすでに現れている。その意味で、イデア界はこの世よりもはるかに実在的である。そして、それが言葉によってリアリティをもたらされているのであれば、「生」も「死」も言葉である。自然科学によって分析される物理的物ではない。

ところが、日常生活で言葉を使っている限りは、実際は人間が言葉に使われている事実が必然的に見えなくなる。従って、「すべては言葉である」という哲学的命題は、なかなか通じない。そして、皮肉にもこの命題が最も通じないのが、「言葉を扱うプロ」であるところの法律家である。「生死とは言葉である」という命題を持ち出せば、「そりゃそうだ。だから六法全書や判例集を研究しているのだ。条文や判決文は言葉だ」という答えが返ってくる。「生死」についても言葉によって細かく規定されている。日本の民法では、出生前の胎児も、損害賠償(721条)、相続(886条)、遺贈(965条)に限っては既に生まれたものとみなすといった規定が置かれている。死亡についても、その順番によって争いが発生することから、同時死亡の推定(32条の2)、代襲相続(887条)、再転相続(916条)、認定死亡(戸籍法89条)といった規定が置かれている。

現に法律家は、その優れた論理的思考力と並外れた努力によって六法全書や判例集を熟読し、難関の国家試験を突破している。自他共に認める「言葉を扱うプロ」である。そして、抽象的に「人生とは何か」を考えている哲学など何の役にも立たないとして、現代社会では哲学は法律学のはるか下の地位に置かれている。しかし、社会的に注目を集める事件が起きるたびに、法律家の語る論理が哲学的な不協和音を起こしているのは、一体どういうわけか。「危険運転致死罪の構成要件はこれこれです。本件のケースはこれに該当しません。条文は客観的であり、言葉が厳格に定義されています。主観や感情によって歪曲してはなりません」、このような論理が人間社会に対して説得力を持たないのはどういうわけか。「言葉を扱うプロ」であれば、「素人はバカである」という憤慨に安住していられるものではない。

「生」も「死」も物理的に捉えられない抽象名詞である、それは人間の脳内にある、ところがどんなに脳を解剖しても「生」や「死」は見えない。しかしながら、どういうわけか自分はすでに生きており、いずれ死ななければならない。このような哲学的懐疑を延々と経た上で辿り着くのが、やはり最初の「生死とは言葉である」という命題である。哲学とは、今ここにある人生そのものであり、いつも驚きから始まる。このように驚いてしまうと、もはや六法全書の中に生死を探しに行くことはできない。同じ言葉でも、そのような言葉は意味を伴って読めなくなるからである。逆に言えば、法律家としてやっていくためには、このような驚きは障害になる。「言葉を扱うプロ」ならば、言葉に扱われてはいけない。

人類の長い歴史が現在の法治国家を作り出し、実証的な社会科学のシステムも発展し、しかも複雑化した社会において紛争も多様化しているならば、現在の裁判システムは必要不可欠である。そして、論理的思考力と事務処理能力に長けた法律実務家も必要不可欠である。しかし、こと犯罪被害者の問題に限っては、特に人間の生死に直結する殺人事件・過失致死事件の裁判と被害者遺族との関係を論じるに際しては、どうしても人生全体を捉える言葉が必要である。その言葉は六法全書の中にはない。「生死は言葉である」という恐るべき事実に自分の人生をもって驚くことのできる者のみが、被害者遺族とともに悲しむことができるからである。哲学とは、今ここにある人生そのものであり、いつも驚きから始まる。犯罪被害者支援が小手先に終わらないためには、その実質が哲学的でなければならない。

香山リカ著 『キレる大人はなぜ増えた』

2008-02-08 11:54:36 | 読書感想文
戦後の日本は、何よりも個人の権利を尊重し、自由を尊重してきた。学校にも市民社会の風を取り入れれば、すべてが上手く行くように思われた。果たしてその結果はどうなったのか。言わずと知れたモンスターペアレントの出現である。運動会が雨天中止になると、保護者からは「遠方から来た祖父母の旅費を返せ」と要求される。不登校の保護者からは、「教科書は不要になったので学校が買い取れ」との要求が出る。校内で転んだ生徒の保護者からは、「二度とケガをさせないとの念書を書け」と迫られる(p.47)。子どもの権利条約の理念を掲げ、体罰や管理教育に反対すれば事足れりとする革新派の見通しは、あまりに単純に過ぎた。

憲法学において、人権の中核は精神的自由権であるとされ(二重の基準)、その中でも表現の自由(憲法21条1項)は最重要の人権であるとされてきた。自己の人格を発展させる「自己実現」の価値と、民主主義を発展させる「自己統治」の価値を有するからである。ところが、その末路が、公共の場でキレる大人の出現であり、ストレスで殺伐とした現代の世の中である。自由や権利、民主主義が実現される社会とは、人々が思い描いたものとは全く違う悪夢のような社会であった。「こんな世の中を目指したはずじゃなかったのに」というところである(p.190)。もちろん紙の上で「二重の基準論の研究のさらなる発展が待たれる」などと言っている憲法学者は、象牙の塔にこもっているしかない。

このようなキレる大人の出現は、一方では急激な情報化社会の進展により、社会のスピードが恐ろしく速くなり、人間に時間的な耐性がなくなったことに原因がある(p.176)。他方では、それに伴って人間の欲望に歯止めが効かなくなり、人々が勝ち組・負け組の二分論に支配されてしまったことにも原因がある(p.179)。しかし、これらを最終的に束ねているのは、やはり人間の理念である。それは、何よりも個人の権利や自由を尊重するという崇高な理念であり、戦後民主主義が純粋に信じてきた正義であった。情報化社会の進展は、表現の自由の拡張である「知る権利」によって無批判に賞賛されてきた。また、「稼ぐが勝ち」の拝金主義は、自由放任主義によって支持されてきた(p.64)。

自分のことを棚に上げて一方的にキレる、他者の気持ちを想像しない、これが極端な形で現れるのが裁判である。これは近年の殺伐とした現象以前に、戦後60年間ずっと殺伐としている。法律は、自ら守るべき規範ではなく、法的手段に訴えるという形で敵対者を叩き潰すための道具とされる(p.185)。民事裁判であればまだいい。刑事裁判では被告人が人権を盾に国家権力(警察官・検察官)に対して正当な権利をもってキレ続けてきたが、その陰で貧乏くじを引かされてきたのが犯罪被害者であった。キレる大人が増えたことにより、戦後民主主義の理念は大きな副作用を生んでしまったのではないかとの認識が広まったことと、近年になって忘れられていた犯罪被害者が思い出されるようになったこととは無関係ではない。

斎藤環著 『思春期ポストモダン』

2008-02-07 09:55:51 | 読書感想文
「心理学化」「心理主義化」という言葉がある。これは、犯罪などの現象を解釈する際に人間の心理面を重視する(重視しすぎる)傾向を指している(p.130)。確かに近年、不可解な凶悪犯罪が起きたときに、その解説に駆り出されるのは心理学者や精神科医が多い。かつての社会では、小説家や教育関係者が多かった。ここまで社会が複雑化し、どんな犯罪を取り上げてみても一筋縄では行かない状況の元では、教育関係者の話が見向きもされないのも納得できるところではある。これに対して、心理学者や精神科医が漢字を羅列した専門用語や長いカタカナをスラスラと用いて説明すれば、現代社会ではそこが取りあえずの到達点だろうと納得できるところもある。

ところが、心理学や精神科学による細かい分類は、それがかえって先入観を生むという弊害もある(p.168)。すなわち、対象を診断・分類して治療をするという形態が行き過ぎれば、その分類に引きずられ、その後の治療が不自由になってしまうという本末転倒である。これを避けるためには、個人を病気という枠組みに閉じ込めるのではなく、その外側の問題を解決することが先決である(p.211)。すなわち、個人だけを相手に治療をするのではなく、個人をとりまく様々な関係性に介入することが必要である。過度の「心理学化」は、分析家の科学コンプレックスのなせる業である(p.224)。

フランスの精神分析家のジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901-1981)は、すべての人間は神経症者であると断じた(p.27)。人間が抱く欲望、様々な判断、行動などは、ことごとく一種の症状であると捉えられる。すなわち、人間のどんな判断も行動も、それを合理的に根拠付けることができない(p.192)。ラカン派の精神分析の立場は、このような行動の本質的な無根拠さを指して、それを「症状」と称する。例えば、「なぜ人は働くのか」という問いがある。これを突き詰めると、どうしても答えが出ない。従って、仕事をする意味が見出せずに引きこもる行動は、過剰な正気ゆえに苦しんでいることの表れである。引きこもりこそが正気であり、「なぜ人は働くのか」という問いに答えも出さずに働かされている人のほうが狂気である。この逆説的状況は、正常と異常の二者択一論を無効にする。

犯罪などの現象を解釈する際には、つい悪者を探しがちである。悪いところを正せば問題はすべて解決する、従ってその原因を見つけろ。この単純な主張は、古今東西を通じて非常に魅力がある。ところが、現実の事態がそれではどうにも解決できず、いつまでも悪者を探して途方に暮れることも多い。それもそのはず、問題を構成するそれぞれの要素に病理はないのに、要素同士の関係において病理が生じてしまっているからである。このような状況は、「関係性」という概念によって捉えられねばならない(p.220)。環境が悪いのではない、社会が悪いのでもない、家庭が悪いのでもない、個人が悪いのでもない、言うなれば「関係」が悪いのだ。このようなポストモダンの特徴的な思想は、哲学界ではもう古いかも知れないが、立憲主義、法治国家、人権大国の文脈においては常に新しい。

新風舎倒産

2008-02-05 00:36:23 | 言語・論理・構造
年明けから地味に世間を騒がせているのが、自費出版の大手であった新風舎の倒産である。以前から著者とのトラブルが多く、詐欺的商法ではないかと叩かれており、現に民事裁判に訴えられている最中であった。刑法的に見れば同社の行為は詐欺罪にはあたらず、著者は「犯罪被害者」ではない。しかしながら、詐欺的勧誘の悪質性、放漫経営による破綻の是非以上に、その後の同社の態度は余りにも情けなく、浅ましい。このブログでは、過去にS・逸代氏の『ある交通事故死の真実 ─12年と4カ月の贈り物─』という新風舎からの自費出版本について書いたことがあったが、同社の態度は、この交通事故死の被害者と遺族をさらに愚弄するものとも思える。

新風舎の松崎義行社長は、ホームページでこのように述べていた。「今までコマーシャリズムと権威主義に偏向していた出版という舞台を開放し、表現者と、読者、出版社が三位一体となった新しい世界を創っていきたいと思います。私は一貫して『表現する人』の立場から出版事業を行ってきました。それは 『表現する人』と共にありたいし、共感したいし、それを仕事にするほど素晴らしいことはないと信じてきたからです」。そして、S・逸代氏は松崎社長の理念を信じて、一言一句血の滲むような思いで言葉を紡ぎ出した。さらに、その言葉を末永く語り継ぐことを新風舎に託した。「あの娘は天女になったんだね…… たとえ過失であっても、どんな理由であっても、ひとつの命を奪った重さを人として、真摯に受け止める必要があると思います。自分の起こした行いの現実から逃げるのではなく、しっかりと受け止めて初めて、新たな次のスタートが切れるのではないかと思うのです」。

ここまで「言葉の仕事の矜持」にこだわった新風舎の、破産手続に際しての保全管理人を通じた弁はどのようなものだったのか。「既刊本の在庫は倉庫会社の倉庫に保管されております。新風舎が通常支払っていた倉庫料(保管料と荷役料)は月額2000万円程度です。倉庫会社にしてみれば、在庫本の倉庫料が支払われないのであれば、本を処分して、別の会社から荷物を入れて料金をとるのは当然のことであり、また在庫本に対して担保権を持っています(古紙として廃棄するとのことです)。ご質問・苦情の多くは『在庫本は作者のものである』というものですが、もし所有権が作者の側にあるとしたら、作者の所有物が倉庫内にあるわけですから、今後の倉庫料は最終的には作者の方の負担となってしまいます。在庫本の所有権が作者にあるとする考えは、作者にとって大変困った結論となってしまいます」(1月30日の新風舎のホームページより抜粋)。

「表現する人」の「想い」を一瞬にして絶版にしてしまった同社の著者に対する「想い」がこれである。命を削って書いた自分の本、それが古紙として裁断されて廃棄される。自分の精魂込めて書いた文章の活字、さらには写真が無残にも資源ゴミと化す。契約書の細かい文字とは関係がなく、法律的な所有権の所在とも全く関係なく、お金の額の問題とはさらに関係なく、著者が本能的に身を切られる思いがすることは当然の話である。にもかかわらず、言葉を扱う会社であった新風舎の関心はそこにはない。著者による在庫本の買い取り価格を2割にするか4割にするか、1月後半はその攻防に終始していた。数字のことしか頭にないらしい。命の言葉を何としても買い戻したい、このような著者の叫びを聞く耳もない。この期に及んで、最低限の想像力すらないのか。このような会社の人間に掛ける言葉は1つしかない。「恥を知れ」。

交通法科学研究会編 『危険運転致死傷罪の総合的研究』

2008-02-03 20:26:29 | 読書感想文
交通法科学研究会の方々は、とてもよく勉強されている。危険運転致死傷罪は準故意犯として扱われており、故意責任の原則に基づく構成要件の定型化を前提とすれば体系的に位置づけが困難であって、同罪は近代刑法の原則を根底から変える可能性を持つ。従って、同罪の存在それ自体の合理性と科学性を本格的かつ批判的に検討する必要があり、客観的かつ社会学的に考察しなければならない。このようなスタンスに基づき、同書は実証的なデータ収集も抜かりなく、社会学的リスク研究の手法をも取り入れている。しかし、どうしても最後に単純な疑問に引っかかる。「そんなに小難しくどうのこうの言う前に、そもそも飲酒運転やスピードの出しすぎ、信号無視をしなければ済むだけの話じゃないんですか?」。

この研究会の方々は、自分が飲酒運転で捕まったときに備えて理論武装をしているわけではない。また、身内や友人に飲酒運転の常習者がいて、その人のために頭を使っているわけでもない。しかし、事態はむしろ、このような理論武装であったほうがまだ救いようがある。客観的な法のあるべき正義、自由と権利と社会正義の実現のために危険運転致死傷罪に批判を述べているのであれば、最初の飲酒運転の問題がきれいに忘れ去られるからである。そもそもの簡単な話、あまりに当然の話が忘れられる。専門知識の細分化が進みすぎた現代社会の学問の陥穽である。人々が人間としての純粋な良心から行う「飲酒運転撲滅キャンペーン」を高みから見下して嘲笑する専門家モード、これが危険運転致死傷罪の改正をめぐるここ数年の膠着状態を生んでいる。

客観的な法のあるべき正義を追究する専門家は、一般人の疑問を全く相手にしようとしない。近代刑法の基礎の基礎もわかっていない素人の的外れの疑問に答えるのは時間の無駄であり、「せめて刑法の入門書を読んで勉強してから出直して来て下さい」、これで終わりである。被害者が悲しみの中でそんな勉強をする余裕がないと言えば、「だったら黙っていて下さい」で終わりである。この近代実証主義のパラダイムにおいて完全に抜け落ちているのは、端的に「人生」の文法である。素人を素人だと定義付ければ、それによって自分は玄人となる。しかしながら、法律の玄人とは一体何なのか。形而下学である法律学は、この世の大多数を占める素人が法を守り、あるいは法を破るところに初めて成立する。法律と法律学の存在を素人に依存し、その上で素人を黙らせようとするところに、形而下学における必然的な衝突が生じる。専門家だ素人だと分けたところで、両者はいずれも「人生」である点において異ならないからである。

危険運転致死傷罪を批判的に検討している専門家に対して、「先生はそんなに飲酒運転がしたいのですか?」と問えば、「ふざけるな」と怒られる。この怒りは、実は残酷な真実を指し示している。そもそもこの人生という存在の形式において、考えることと生きることは別の何かではあり得ないからである。専門家自身の人生を問う問いは、下らない問いである以上に恐ろしい問いである。専門家に対する失礼な問いでなければ、その専門家が怒る理由はない。客観的な議論を積み重ね、主観性を排除するからこそ、そこで絶対唯一の主観の存在をピンポイントで指摘されれば急所を突かれることになる。問いの問い方自体を問えば、それは必然的に禁句を破る。「先生は危険運転致死傷罪に紙の上で逆らっていますが、現実の生活では法を守り、飲酒運転をしていないのはなぜですか? そこまで法に逆らうのなら、検問をしているところで先生が飲酒運転をすればいいのではありませんか?」。それでは懲戒免職になって、危険運転致死傷罪の研究ができなくなると言うならば、理論と実務の架橋もクソもない。

声に出して読みたくない日本語

2008-02-02 11:27:40 | 言語・論理・構造
● 声に出して読みたくない日本語

被告人は、法定の除外事由がないのに、平成20年2月2日午前11時27分ころ、東京都新宿区新宿1丁目1番1号被告人方において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン塩類を含有する結晶約0.4グラムを約6立方センチメートルの水に溶解した水溶液を自己の左腕に注射し、もって覚せい剤を使用したものである。
罪名および罰条  覚せい剤取締法違反 同条41条の3第1項第1号、第19条
(検察官による起訴状朗読)


● 声に出して読みたい日本語

今しばし 麦うごかしてゐる風を 
追憶を吹く風とおもひし (佐藤佐太郎) 

風狂ふ 桜の森にさくら無く 
花の眠りのしづかなる秋 (水原紫苑)

坂の上に 教会ありし幼年の 
風景すでに版画のごとし (雨宮雅子)

漠然と 恐怖の彼方にあるものを 
或いは素直に未来とも言ふ (近藤芳美)

くさも樹も なべてが天へたれさがる 
この倒錯を春というべし (村木道彦)