犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日本人はなぜ遺言を書かないのか

2008-02-19 15:19:52 | 時間・生死・人生
日本人は、欧米に比べて遺言を書かないようである。この点について、日本の民法学者や法律実務家の意見はだいたい一致している。「日本では伝統的に、遺言といえば『縁起でもない』という反応が多い。しかし、将来の紛争を未然に防ぐために遺言を残すことは、財産を持つ者の権利であり、責任でもある。この点について、日本人の考え方はまだまだ遅れている。このような風習は改めるべきであり、遺言の大切さをPRすべきである」。近年では高齢化社会を迎えて、銀行が遺言信託業務を請け負うことも増えてきた。そして、20代や30代の若者が「相続コーディネーター」と名乗り、70代や80代の老人に相続税の節税対策のアドバイスなどをしている。

「遺言を書きましょう」。「遺言は大切です」。このようなPRが公証人や行政書士の手数料確保のために行われているならば、話はわかりやすい。しかし、ことの性質が人間の死であるために、やはりこのPRは何となく気持ち悪い。日本人の考え方はまだまだ遅れているといっても、考え方が進んだところで、その当人は遺言を書いて死んでしまうからである。死んでしまえば、その人は日本人ではなくなる。果たして、考えが進んでいるとか遅れているとかいうのは、いったいどの日本人のことなのか。個々人ではない、全体としての日本人のことだといっても、そのような日本人は死ぬわけがない。従って、遺言を書く必要もない。

遺言というものを書く動機は、自分の死後に骨肉の争いが起きることが忍びないと感じるからである。それでは、そもそもなぜ遺族の間に骨肉の争いが起きるのか。それは、いずれその遺族も自分自身が死ぬことを知っているからである。人間はいずれは必ず死ぬ、従って生きているうちに十分楽しんで幸せな一生を送りたい。しかしそのためにはお金がいる、だから遺産が欲しい。話は簡単である。こうして、また最初に戻る。不動産や株式を大量に保有している資産家の一族の間では、遺言を書いたところで、遺言書の偽造やら遺留分減殺やらで大騒ぎになる。片や大多数の庶民には、遺言を書く動機も起きず、法定相続が粛々と行われる。ここで相続コーディネーターが登場して「遺言を書きましょう」と叫んだところで、遺言を書く人が劇的に増えるとも思われない。

日本の民法では、遺言は15歳から書けることになっており、財産に関する自己決定権を広く認めるという理念に基づくものとされている。しかしながら、いったい何人の少年少女が、15歳で遺言を書いているのか。法律の規範定立とあてはめの客観的なパラダイムは、こと話が「生老病死」に及ぶと、途端に歯が立たなくなってくる。15歳の若者にとっての世界と、85歳の老人にとっての世界は、主観的に明らかに異なっている。人間は時間の中にしか生きられず、従って年齢の中にしか生きられないからである。ところが、「日本人はなぜ遺言を書かないのか」という全称的な問題の立て方では、この刻時性が捉えられない。客観的・抽象的な日本人であれば、人生経験が深まることもなければ、老後の不安で夜中に眠れなくなることもない道理である。