犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

時代に乗り遅れるとはどのようなことか

2008-02-20 22:16:50 | 時間・生死・人生
次世代DVDの規格の主導権争いは、東芝が「HD-DVD」について撤退を表明したことにより、ソニーや松下電器産業が推進する「ブルーレイ・ディスク」が勝利する見通しとなった。このような規格戦争は消費者置き去りの愚挙であるとの批判もあるが、そもそもメーカーの自由競争は消費者に良質の製品を提供するものとして推奨されてきたのだから、どちらに転んでも理想の社会は到来しない。ところで、次世代DVDの「次世代」とは一体いつなのか。この世界は、この地球は、いつになったら「次世代」になるのか。

同じような言い回しとして、「10年後の日本」というものがある。10年後の日本はどうなっているのか。2008年に「10年後の日本」と言えば、これは2018年のことである。このように時間軸を固定してしまうと、来年、再来年と時間が進むにつれて、「9年後の日本」、「8年後の日本」という具合に数字が減っていくような気がしてくる。ところが、実際にはこのようなことは起きない。「10年後の日本」は、2019年、2020年という風に先に進んでしまうからである。そもそも2008年は、「1998年の10年後の日本」である。その意味で、時代はいつでも「10年後の日本」である。2018年のことを想像してああだこうだ言うよりも、1998年のことを振り返ってみて、どれほど予想が外れているかを笑い飛ばすほうが賢い。

携帯電話や電子メールなど、つい数年前まではこの世には存在しなかった。しかし、時間の中にしか生きられず、従って現在にしか生きられない人間は、それらが存在しなかった時代のことを簡単に忘れる。理想の社会があっという間に現実になれば、それは理想でも何でもなくなる。理想が実現した後に待っていたのは、夢や希望にあふれた世界ではなく、目標を失ったニヒリズムである。地球の自転と公転の速さは悠久の昔から変わっていないのに、時代の流れが速くなったと感じるのは、端的に人間が自らそう思い込むことによる錯覚でしかない。「スピードばかり追求して、人間は本当に幸せになっているのか。どこか現代社会は間違ってしまっているのではないか」。このような閉塞感から自由になるためには、時代の流れの速さなるものの実在を疑ってみればよい。

現代社会では、自分から常にアンテナを張って情報化の波に乗っていなければ、あっという間に時代から置いて行かれてしまう。そして、一度時代から取り残されてしまったら、時代に追いつくことは並大抵のことではない。この恐怖感、不安感を根本的に払拭するためには、やはり逆説的な発想が必要である。そして、ハイデガーの「死の哲学」がこの逆説を正確に言い当てている。人間は死を見つめることによって、初めて生への希望が湧いてくる。すべての人間は必ず死ぬ。21世紀に生きる人間は、どう頑張っても、23世紀の時代の波に乗ることはできない。25世紀の時代から取り残されていることも確実である。30世紀や50世紀は言うに及ばない。自分の貴重な一生を、21世紀の時代に食らい付いて行くことに捧げることの虚しさは、ハイデガーの視点を借りれば簡単に見抜ける。時代の流れの速さなるものは、人間の時間性においては実在しない。