犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

感情的なものは理性的である

2008-02-16 15:42:50 | 国家・政治・刑罰
2月15日、地下鉄サリン事件等の実行犯で殺人罪等に問われたオウム真理教元幹部・林泰男被告の上告審の判決があった。最高裁は林被告の上告を棄却し、これによって死刑判決が確定することとなった。林被告は、サリン入りの袋を他の幹部よりも多く3個も持ち込み、それによって地下鉄日比谷線においては、事件のあった路線の中で最多の8人の死者が生じている。

死刑存置論と死刑廃止論の争いが机上の空論にならないためには、何よりも正面から「死」を見つめなければならない。そして、逃げずにこれを見つめるには、何よりも被害者の遺族の声を聞かなければならない。生死の問題であり、生死の問題でしかない死刑を語るに際して、遺族から逃げ回って死刑廃止条約の条文を叫んでも全く支持を集めることができない道理である。「死刑の問題は重い」「遺族の言葉は重い」などと言っている限りは、表面的な政治論から抜け出せない。

林泰男被告が散布したサリンによって娘の命を奪われたある母親は、この死刑判決を聞いて、次のように述べていた。「麻原彰晃(松本智津夫)も憎いが何よりも林泰男が憎い。地裁の法廷で証言をしたとき、林に殴りかかりそうになった。しかし、警備をしている拘置所の職員と裁判所の廷吏に止められた。自分は今でも林を殴れなかったこの手を責めている。娘に申し訳が立たない」。

もしもこのとき警備員の反応が遅れて、実際に母親が林被告を殴っていたらどうなっていたのか。おそらく司法行政事務は大変な大騒ぎになったことだろう。母親の暴行罪は微罪処分で見逃されるとしても、拘置所の職員と裁判所の廷吏の責任問題が生じ、裁判官会議においては訴訟指揮が問題となり、再発防止のための対応策に追われることになっただろう。厳罰化に反対し、遺族の感情を消極的に捉える立場は、「だから言っただろう。裁判はそんな場ではない。遺族を法廷に入れてはいけないのだ」と勢いづくことは目に見えている。

しかしながら、この母親が今でも苦しんでいるのは、法律に反して法廷内で被告人を殴ろうとしたことではない。殴ろうとして殴れなかったことである。なぜ殴ることができなかったのか、いつまでも自分を責めている。娘を殺した犯人が目の前にいるのに殴ることもできず、娘に対して申し訳が立たない。娘を守れなかった自分のこの手が許せない。この母親の倒錯的な悩みと苦しみは、間違いなく近代裁判のシステムによって必然的に生じている。そして、「法廷で遺族が感情的に意見を述べれば公平な裁判が阻害される」と主張する伝統的な人権論によってもたらされている。それでは、裁判システムのほうは、これに対してどのように答えるのか。

これは答えられない。すべてが壊れるからである。林泰男がサリンの袋を割らなければ娘は生きていた、林泰男がサリンの袋を割ったから娘は殺された。すべてはそのとおりの現実である。娘を殺した犯人が目の前にいれば殴りたくなるのが母親であり、殴りたくならなければそれは母親ではない、これもそのとおりの現実である。遺族の意見が感情的であるならば、それはこの世では遺族の意見が感情的でないことができないという単なる現実を指し示すのみである。客観的なものは主観的であり、感情的なものは理性的である。

裁判システムが遺族の言葉に答えられないことを知っている限り、自らにおいて答えはすでに出ている。従って、法治国家の維持のためには、その問いを閉じ込めなければならない。いわく、「法は客観的で理性的なければならないが、遺族は主観的で感情的である。歪曲や誇張によって裁判の公正が害されてはならない」。しかし、このように厳罰化や冤罪を批判する人権派がいつも感情むき出しで激怒し、むきになって反対派を論破しようとして徒党を組むのは一体どうしたことか。