犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ロス疑惑

2008-02-27 18:58:17 | 実存・心理・宗教
1981年に起きたロス疑惑が、30年近く経って再燃している。問題なのは、現代社会におけるこのような再燃の形式である。「日本で無罪判決が確定しても、アメリカで再び裁かれることがあるのか」。「新証拠とは一体何なのか」。現代社会では、論点はこのような形でしか表れない。そして、情報化の波に乗って、これ以外の論点の形式は見えにくくなる。しかしながら、論理的にも時間的にも最大の論点は明白である。「だから、要するに、三浦和義元社長は一美さんを殺したのか殺していないのか」。近代刑法や刑事訴訟法の理論はこの最大論点をひた隠しにし、専門家はワイドショー的な視点を見下す。実存的な罪と罰の問題は、どんどん技術的に細かくなり、素人では近付きがたいものになって行く。

三浦元社長の逮捕は、国際法上も何ら問題はない。どういうわけか人類はこの地球に国というものを作り、国ごとに法律を変えているのだから、これ以上何をどうしろと言われても困るという話である。近代裁判の制度が確立している限り、1次的には属地主義を採用し、重罪について2次的に属人主義を採用することには、それなりの合理性がある。従って、日本人がアメリカで殺人を犯したり、アメリカ人が日本で殺人を犯したりすれば、このような現象は必然的に起きる。法の隙間でも何でもなく、条約の不備でも何でもない。二重の危険の原則は英米法に由来するはずだと言っても、困るのは学者だけである。

殺害された一美さんの母親である佐々木康子さん(75歳)は、三浦元社長の逮捕を自宅の仏壇に報告し、マスコミには「本当のことを言ってほしい」とのコメントを発表した。当然のことである。本来人間であれば、これ以外に取るべき行動はなく、言うべき言葉もない。裁判の効力はどうか、新証拠とは何か、これらの論点は、論理的にも時間的にも派生的な問題だからである。佐々木さんは、「病院のベッドに寝ていたときの一美の顔は、生涯忘れられない」との手記を残し、1998年に高等裁判所で無罪判決があったときには「亡くなった娘と主人に何て報告したらいいか……」と声を震わせた。彼女の30年近くの苦しみは、体験したことのない者にとっては想像を絶する。従って、合理的で客観的な近代社会は、このような想像をしたがらない。そして、裁判の効力はどうか、新証拠とは何かという興味深い論点について論争することになる。

近代刑法の支配する社会においては、裁判所で被告人の無罪が確定すると、その事件そのものについて意見を述べることが憚られるようになる。灰色無罪であろうと、被告人は堂々と無罪を誇ることができる。ここには、近代刑法に基づく社会のシステムが被害者をパラダイムの外に追いやる構造が端的に表れている。今回の三浦元社長の逮捕は、このパラダイムを思わぬ形で揺さぶった。それゆえに近代刑法の理論は、またもやその理論で解決できる問題のみを中心論点として掲げ、罪と罰の実存的な問題から目を逸らそうとする。いわく、「新証拠とは一体何なのか」。

「三浦和義は無罪になった。だから、要するに、彼は一美さんを殺したのか殺していないのか」。この問いは、「無罪が確定した者が再び裁かれることがあってよいのだろうか」という問いよりも論理的に先に来る。そして、人間が人間であるところの罪と罰の問題をストレートに捉えている。裁判の制度上は、確かにそうなっている。だから、あなた自身の倫理は一体どうなのだ。もし仮にあなたが真犯人であるならば、良心の呵責に苦しむことはないのか。もし仮にあなたが真犯人であるならば、死者の前で、いかにしてここまで鈍感になれるのか。どんなに前近代的でプリミティブであろうと、人間の罪と罰の問題からこの側面を消し去ることはできない。