犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『ロゴスに訊け』  「すべての死者は行方不明」より

2008-02-23 18:07:36 | 読書感想文
「すべての死者は行方不明」より

ニューヨークのビル倒壊現場では、まだ数千人の人々が行方不明だそうである。時同じくして、ハワイで沈没した「えひめ丸」の行方不明者たちが、捜索により発見されつつある。これは決して不謹慎な話ではなくて、きわめて真面目な話なので、間違わないで聞いていただきたいのだが、右の話で私が面白いと思うのは、明らかに死亡しているとほとんどの人が心中では思っているにもかかわらず、決してそれを「死者」とは言わず、あくまでも「行方不明者」と言うところである。

遺体が見つからない限り、生きているかもしれないとの希望にすがっている遺族の人々に気遣って、人はそのような言い方をすることにしているのだろう。しかし、人がそのような心情的な気遣いをする根底には、必ずしも自覚されていない、さらに深い理由があると思われる。例によってこれは、深く存在論的な話なのである。

生きているはずはないと、ほとんどの人は思っていると言ったけれども、この「ほとんどの人」というのは、行方不明者の家族や友人以外の人、つまり行方不明者が自分にとって「三人称」、つまりまったく見知らない人であるような人々だろう。行方不明者が家族や友人である、つまり「二人称」として見知っている人々にとっては、おそらく事情はまったく違う。彼らは彼らが生きていると、死んでいるはずなどないと、あくまでも思っているはずである。

げんにニュースなどで彼らの言を聞く限り、「絶対に生きていると信じています」「彼は強い人だから死んでなんかいるもんですか」といった、強い信念の表明ばかりである。しかし、人々のその強い信念の、その根拠はと言えば、驚くべき当たり前のことなのだが、唯一、「死体が見つかっていない」という、これだけのことなのである。これは、どういうことなのか。死体が存在しなければ、死は存在しない。これである。行方不明者の死体を見るまではその死を納得できないということも、その心情の根底には、必ずこの存在論、存在と無の謎がある。行方不明ということでは、すべての死者は行方不明なのである。

(p.147~p.151より抜粋)


海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故は、すでに4日間が過ぎたが、吉清治夫さん(58)と哲大さん(23)の捜索は難航している。海上自衛隊にはここぞとばかりにバッシングが向けられているが、これはあくまでも「三人称」の批判である。吉清さんの親族や新勝浦市漁協の人々、すなわち「二人称」の人々にとっては、事情はまったく違う。ニュースキャスターの正義の怒りは、吉清さんの親族の焦りや怒りを正確に描写することができていない。

「常識的にまず助からないだろう」。「恐らく2人は生きていない」。防衛省の幹部や与党の政治家がポロッとこのようなことを言えば、バッシングはさらに加速する。それゆえに防衛省幹部や政治家は、慎重に言葉を選ぶ。この政治家の偽善もさることながら、バッシングのネタを探して問題発言を待つ人々の偽善はさらに品性がない。ただひたすら2人の無事な帰還を待ち、2人の笑顔を待ち続けている人々の心情に寄り添って見るならば、その心情は石破大臣の辞任を求める野党の主張とは似て非なるものであることはすぐにわかるはずである。

※ 今日で池田晶子氏の死去からちょうど1年になります。