犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

斎藤環著 『思春期ポストモダン』

2008-02-07 09:55:51 | 読書感想文
「心理学化」「心理主義化」という言葉がある。これは、犯罪などの現象を解釈する際に人間の心理面を重視する(重視しすぎる)傾向を指している(p.130)。確かに近年、不可解な凶悪犯罪が起きたときに、その解説に駆り出されるのは心理学者や精神科医が多い。かつての社会では、小説家や教育関係者が多かった。ここまで社会が複雑化し、どんな犯罪を取り上げてみても一筋縄では行かない状況の元では、教育関係者の話が見向きもされないのも納得できるところではある。これに対して、心理学者や精神科医が漢字を羅列した専門用語や長いカタカナをスラスラと用いて説明すれば、現代社会ではそこが取りあえずの到達点だろうと納得できるところもある。

ところが、心理学や精神科学による細かい分類は、それがかえって先入観を生むという弊害もある(p.168)。すなわち、対象を診断・分類して治療をするという形態が行き過ぎれば、その分類に引きずられ、その後の治療が不自由になってしまうという本末転倒である。これを避けるためには、個人を病気という枠組みに閉じ込めるのではなく、その外側の問題を解決することが先決である(p.211)。すなわち、個人だけを相手に治療をするのではなく、個人をとりまく様々な関係性に介入することが必要である。過度の「心理学化」は、分析家の科学コンプレックスのなせる業である(p.224)。

フランスの精神分析家のジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901-1981)は、すべての人間は神経症者であると断じた(p.27)。人間が抱く欲望、様々な判断、行動などは、ことごとく一種の症状であると捉えられる。すなわち、人間のどんな判断も行動も、それを合理的に根拠付けることができない(p.192)。ラカン派の精神分析の立場は、このような行動の本質的な無根拠さを指して、それを「症状」と称する。例えば、「なぜ人は働くのか」という問いがある。これを突き詰めると、どうしても答えが出ない。従って、仕事をする意味が見出せずに引きこもる行動は、過剰な正気ゆえに苦しんでいることの表れである。引きこもりこそが正気であり、「なぜ人は働くのか」という問いに答えも出さずに働かされている人のほうが狂気である。この逆説的状況は、正常と異常の二者択一論を無効にする。

犯罪などの現象を解釈する際には、つい悪者を探しがちである。悪いところを正せば問題はすべて解決する、従ってその原因を見つけろ。この単純な主張は、古今東西を通じて非常に魅力がある。ところが、現実の事態がそれではどうにも解決できず、いつまでも悪者を探して途方に暮れることも多い。それもそのはず、問題を構成するそれぞれの要素に病理はないのに、要素同士の関係において病理が生じてしまっているからである。このような状況は、「関係性」という概念によって捉えられねばならない(p.220)。環境が悪いのではない、社会が悪いのでもない、家庭が悪いのでもない、個人が悪いのでもない、言うなれば「関係」が悪いのだ。このようなポストモダンの特徴的な思想は、哲学界ではもう古いかも知れないが、立憲主義、法治国家、人権大国の文脈においては常に新しい。