犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

香山リカ著 『キレる大人はなぜ増えた』

2008-02-08 11:54:36 | 読書感想文
戦後の日本は、何よりも個人の権利を尊重し、自由を尊重してきた。学校にも市民社会の風を取り入れれば、すべてが上手く行くように思われた。果たしてその結果はどうなったのか。言わずと知れたモンスターペアレントの出現である。運動会が雨天中止になると、保護者からは「遠方から来た祖父母の旅費を返せ」と要求される。不登校の保護者からは、「教科書は不要になったので学校が買い取れ」との要求が出る。校内で転んだ生徒の保護者からは、「二度とケガをさせないとの念書を書け」と迫られる(p.47)。子どもの権利条約の理念を掲げ、体罰や管理教育に反対すれば事足れりとする革新派の見通しは、あまりに単純に過ぎた。

憲法学において、人権の中核は精神的自由権であるとされ(二重の基準)、その中でも表現の自由(憲法21条1項)は最重要の人権であるとされてきた。自己の人格を発展させる「自己実現」の価値と、民主主義を発展させる「自己統治」の価値を有するからである。ところが、その末路が、公共の場でキレる大人の出現であり、ストレスで殺伐とした現代の世の中である。自由や権利、民主主義が実現される社会とは、人々が思い描いたものとは全く違う悪夢のような社会であった。「こんな世の中を目指したはずじゃなかったのに」というところである(p.190)。もちろん紙の上で「二重の基準論の研究のさらなる発展が待たれる」などと言っている憲法学者は、象牙の塔にこもっているしかない。

このようなキレる大人の出現は、一方では急激な情報化社会の進展により、社会のスピードが恐ろしく速くなり、人間に時間的な耐性がなくなったことに原因がある(p.176)。他方では、それに伴って人間の欲望に歯止めが効かなくなり、人々が勝ち組・負け組の二分論に支配されてしまったことにも原因がある(p.179)。しかし、これらを最終的に束ねているのは、やはり人間の理念である。それは、何よりも個人の権利や自由を尊重するという崇高な理念であり、戦後民主主義が純粋に信じてきた正義であった。情報化社会の進展は、表現の自由の拡張である「知る権利」によって無批判に賞賛されてきた。また、「稼ぐが勝ち」の拝金主義は、自由放任主義によって支持されてきた(p.64)。

自分のことを棚に上げて一方的にキレる、他者の気持ちを想像しない、これが極端な形で現れるのが裁判である。これは近年の殺伐とした現象以前に、戦後60年間ずっと殺伐としている。法律は、自ら守るべき規範ではなく、法的手段に訴えるという形で敵対者を叩き潰すための道具とされる(p.185)。民事裁判であればまだいい。刑事裁判では被告人が人権を盾に国家権力(警察官・検察官)に対して正当な権利をもってキレ続けてきたが、その陰で貧乏くじを引かされてきたのが犯罪被害者であった。キレる大人が増えたことにより、戦後民主主義の理念は大きな副作用を生んでしまったのではないかとの認識が広まったことと、近年になって忘れられていた犯罪被害者が思い出されるようになったこととは無関係ではない。