犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ペルソナと本来的自己

2007-03-30 19:57:30 | 時間・生死・人生
裁判とは、人間がその肩書を演じる場である。「裁判官」も「検察官」も「被告人」も人間に付された肩書であって、人間そのものではない。ハイデガーは、このような役柄を「ペルソナ」と呼ぶ。これは「仮面」という意味である。人間がこのような肩書を演じざるを得ないことは、裁判に限らず、人間社会の集団においては不可避的である。肩書と自分自身とを混同することは、人間にとってごく正常な事態である。人間は与えられた肩書を生きることによってしか、この社会を生きることができない。

裁判という場において、裁判官は自らその肩書を選び取っている。検察官も弁護士も同じである。辞めようと思えばいつでも辞められるが、自分の意志でその地位に止まっている。このような役割として自分を、ハイデガーは「非本来的自己」と呼ぶ。これに対して、被告人や被害者という肩書は、自分の意志で選び取る類のものではない。できることならば、誰も欲しくない肩書である。被告人や被害者は、自分自身をその肩書から脱出させようとする。このような場面に現れる自分自身を、ハイデガーは「本来的自己」と呼ぶ。

犯罪被害者の裁判参加が認められる方向での法改正が進められている。しかし、被害者はあくまで「被害者」という肩書によってしか自らの権利を行使できない。裁判官の定める範囲内で、ごく短時間で発言することができるだけである。法廷という場は、裁判官・弁護士・被告人・被害者というペルソナ、すなわち「非本来的自己」の集まる場であり、1人の人間としての「本来的自己」を表現する場ではない。ここで被害者が1人の人間としての言葉を述べてようとしても、それはすべて被害者の陳述という文脈に変換されてしまう。

ハイデガーによれば、人間とは、自分の意志で「本来的自己」「非本来的自己」のバランスを選択することによって、世界内存在としての自分の人生を世界に企投する存在である。これを無理に崩すことは不自然であり、必ずひずみが生ずる。しかしながら、近代刑法のシステムは、この不自然なひずみを押し付けるルールである。犯罪被害者は、法廷の外では1人の人間としての報復が禁止され、しかも法廷の中では1人の人間としての発言が禁止される。犯罪被害者が「本来的自己」を選択する場は、近代刑法のシステムの中では完全に奪われている。

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