犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在は人権に先立つ

2007-03-29 18:53:55 | 時間・生死・人生
現代社会において、「人権は存在しない」と主張することには相当な勇気が必要である。人権はこの社会に存在するものとして、世界人権宣言にも日本国憲法にも明確に規定されており、法律学からは疑い得ない大前提とされているからである。それでは、人権は存在するとして、「存在」は存在するのか。このように問われるならば、法律学のパラダイムではお手上げであろう。

法律学は、人権は存在することを大前提としつつ、その範囲や調整について細かく論理を展開する。しかし、「人権が存在する」とはいかなることか、そのこと自体については考えようとしない。人権とは人間そのものではなく、人間の体の一部でもない。もちろん人間の外にある物体や物質でもない。六法全書における世界人権宣言や日本国憲法の「人権」という文字のことでもない。それでは、いったい人権はこの世のどこに存在するのか。

ハイデガーは、「存在者」(すべての「あるもの」)と「存在そのもの」(「ある」という事柄)とを厳密に分けている。「存在」とは「存在者」をあらしめている働きであり、これは社会科学における存在の議論よりもはるかに厳密な考察である。ハイデガーが切り込んだ問題とは、「存在が存在すること」である。社会科学は「存在者」の方しか問わないが、ハイデガーはまさに「存在すること」そのことを問い続けた。この「存在」とは絶対無と同義であり、無でありながら存在と無の対立を超えてそれらを包摂するものである。

法律学のパラダイムにおいては、「なぜ人権というものが存在するのか」という問いを究極的に問い詰めていけば、必ず行き止まりになってしまう。人間の尊厳という理念を持ち出してみても、さらに「なぜ人間の尊厳というものが存在するのか」という疑問がどこまでも残る。これに対して答えようとすれば、「人間だからである」と答えるしかない。これは問題を無限に先送りにしているだけである。「人間とは尊厳のある存在であるから、人間には尊厳がある」という循環論法である。この循環論法は、人権論の枠内では解決できない。

ハイデガーの存在論から見てみれば、そこには安易な転倒がある。人権や人間の尊厳などといった概念は、個々の「存在者」に属するものであり、それが「存在」することは説明できない。存在者が存在そのものを問うことはできないからである。人権が存在すると言っても、その存在が存在することを説明できない以上、人権をすべての出発点に置くことはできない。もし、人権の存在を疑い得ない大前提として掲げるならば、それは神の代替物であり、ニヒリズムの変形である。

現代社会において、人権の存在に疑義を表明することは勇気が必要である。しかしながら、「人権が存在する」とはいかなることか、正確に説明できる人は少ないだろう。法律学からは疑い得ない大前提とされていても、それを疑うのが哲学である。世界人権宣言や日本国憲法の条文に書いてあることをそのまま信じてしまっては、哲学は終わりである。

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