犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死者に語りかけるということ

2008-08-24 19:24:23 | 時間・生死・人生
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。

平成20年8月7日 森田一義


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8月7日に行われた漫画家の赤塚不二夫さん(享年72)の葬儀で、大きな話題を呼んだのが、タモリさんの弔辞であった。タモリさんは手にしていた紙を何度も見ながら弔辞を読んでいたが、その紙は白紙であり、すべてアドリブだったとのことである。何しろ、「酒を飲んで帰ったら面倒くさくなった」らしい。今の世間的な常識においては、弔辞は色々な式辞の中でも表現が難しいものとされ、失敗が許されないことから、定型文を並べて無難にまとめられることが多い。そのような中で、タモリさんの赤塚さんに対する思いをストレートに表現した弔辞が話題を呼んだのは、人間の深いところにある何かを指し示したからである。

人間の一生には、入学式や卒業式、成人式や結婚式など、あらゆる儀式がある。その中でも、人間がたった一人きりで主役を務めるのが葬式である。最大にして最高の舞台である。ところが人間は、どう頑張っても、自らの葬式には出席することができない。あらゆる儀式の中で、自らに一番関係があるはずの葬式においてのみ、なぜか本人は出ることができない。主役不在である。それにもかかわらず、人類はこの儀式を脈々と受け継いできた。死者を送る者が次の死者となり、その死者を送る者がまた次の死者となり、気が遠くなるほどの繰り返しである。そして、主役が不在でありながら、周囲の者はその人に語りかける。まるでそこに居るかのように語りかける。しかも、その語りかけの内容は、生前であれば意味が通じないものである。

タモリさんは述べた。「あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、ニコニコと眺めていることでしょう」。今やインターネットが瞬時に世界を駆け巡り、科学的世界観が常識となっている。今年の3月には、宇宙飛行士の土井隆雄さんが宇宙に行ってきたばかりであり、何人もの宇宙飛行士が地球を見下ろしている。それでも我々は、赤塚不二夫さんがどこか高いところから我々を見ているという言い回しに触れても、特に不自然を感じない。それどころか、定型的な弔辞ではなく、白紙を持って「あなた」「赤塚先生」と真っすぐに語りかけたタモリさんに驚異の念を持った。そして、弔辞とは本来こうあるべきだとの感を強くした。これらは、死者が存在していなければ全く意味を持たない行為である。そしてこれらは、改めて理屈をつけて考えるような話ではない。人間はすでに、そのような存在の形式をそのまま生きてしまっているからである。

死者は今どこにいるのか。これは存在の不思議であり、不在の不思議である。物理的な肉体のことではなく、その人「そのもの」はどこへ行ったのか。それは、自分の記憶を持っている、「その人であるところのその人」である。「死者は我々の心の中に生きている」という言い回しは、比喩的に使われることが多いが、これ以外に表現のしようがない端的な現実である。存在したことが存在する、すなわち全ての過去は現在において存在し、しかもすべての他者は自己において存在している。死別の悲しみは記憶の所有によるものであり、赤の他人は悲しみを持つことがない。これはお互い様である。そうであるならば、残された人における死者の記憶が死者の死とともに消滅すれば、悲しみはなくなるはずである。しかし、記憶の消滅と悲しみの消滅、より残酷なのは果たしてどちらか。他の誰でもないところの「その人」は、一度存在を始めたならば、すべての時が現在である以上、その存在を止めることはない。

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2 コメント

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本当に不思議です。 (某Y.ike)
2008-08-27 22:30:24
そうですね。すべての時が現在であるならば、すべての過去は記憶の中ですから、不確かであることによってのみ確かなのでしょう。

すべての物事は、人間の記憶の中にあることによってのみ存在が許されるようです。その意味では、「人間の死とは、その人の記憶を持った人がすべて死んだ時である」という言い回しは、単なる比喩ではなく、事態を的確に言い表しているように思います。

死者は物理的に実在しなくなる、これはあくまでも科学の説明だと思います。この大前提が疑われないまま、癒しや立ち直りが論じられることが多いですが、やはりどこかが変だという違和感が残ってしまうのでしょう。

死者は死によって、それ以上どこにも行かなくなる。永遠に逃げることはない。それゆえに、生きている者は、いつでもその人を心の中で呼び出すことができるようになる。これは本当に不思議ですね。一般的な「悲しみ」とは違う何かだと思います。
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不思議なことですね。 (ゆく)
2008-08-27 08:53:50
生きてそこに居ても存在を無視されることもあります。それでも形としてはこの世に存在しています。
それ以上確かなものはありません。
反対に、死んでいるのに別の人間人の中に生きる人間も居ます。でも会いたくても会えません。目にすることすらできません。自分以上の存在感があるのに、なんて不確かなのでしょう。
確かなことと、不確かなことが十字架のように中心で一つになる場所が最高の「存在」のように私は思えます。
でももう不確かな存在しか残っていないなら・・どんなに悲しくても記憶を最大限に存在させたいです。


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