犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「交通死亡事故の家族は厳罰を望む」という通念について その1

2013-02-01 23:12:39 | 国家・政治・刑罰

 危険運転によるものではない過失犯の交通事故について、法律家の多数派は、刑罰を重くすることの意味をあまり認めていないと思います。学者のほうからは、過失犯には「改善・更生」という価値がそぐわないという点や、例によって刑法の謙抑性というイデオロギーの点が挙げられていますが、実務家のほうでは、また別の共通概念が支配しているように感じることがあります。

 法的な概念による抽象的・論理的思考に長けた者は、人間一般に対して投げ掛ける目線が、総じて高くならざるを得ないと思います。法は冷徹かつ冷酷であり、感情を排し、客観性を重んじるためです。人間は「ヒト・モノ・カネ」のうちのヒトに過ぎません。ここでは、「社会は甘くない」「世の中は厳しい」というような論調が主流であり、交通事故の被害者に対する同情が、一段上からの見下ろしたものになっているように感じます。

 知的エリートに属する法律家において、「経済社会に交通事故は必要悪だ」という命題は、何の疑問もなく受け入れられているものと思います。現代の車社会では誰かが犠牲を負わなければならず、やむを得ないことであり、この常識は被害者も納得しなければならないという通念です。普段は理念としての個人主義を標榜し、全体主義や経済優先への懸念を表明する有職者も、この場面では普通に論理を誤魔化していると感じます。

 法律実務家の本音の部分では、社会から交通死亡事故がなくなっては大変なことになります。交通事故専門の弁護士や、保険会社の顧問弁護士が儲からなくなるからです。他方で、「交通死亡事故を減らさなければならない」という価値についても、よっぽどの悪徳弁護士でなければ、本音の部分で理解されていると思います。人間は心の中に矛盾を抱えつつ、被害者の死を悼みながら、保険会社からの報酬を受け取ります。

 それでは、法律家は「死亡事故を減らす」というのではなく、「事故をゼロにする」「このようなことが二度とないようにする」という思考が理解できるかと言えば、これは難しいというのが私の印象です。現在の社会状況では物理的に困難を伴う、という部分ではなく、「ゼロを目指す」という目的そのものについて、目線の高いシステム思考からは価値が置かれないという問題です。

(続きます。)

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1 コメント

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新幹線男。 (電車男。)
2013-02-08 20:01:05
寧ろそう言う考え方は非論理的ですよ。
当然そう言う思想はエゴイズムですよ。
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