犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「交通死亡事故の家族は厳罰を望む」という通念について その2

2013-02-02 00:01:55 | 国家・政治・刑罰

 構成要件の枠組みでは加害者側からしかものが見られませんが、こと法律効果であるところの刑罰の重さを論じる場面では、逆に被害者側が起点となる思考が流布していると思います。もっとも、「経済社会において交通死亡事故は必要悪である」という通念からは、「被害者にもこの程度の常識は納得しなもらわなければ困る」という主張や、「これが受け入れられない被害者は物分かりが悪い」といった隠れた本音も避けがたく存在しているように感じます。

 現代社会における自動車の有用性を前提に、経済社会全体を視野に入れた思考は、目線が高く設定されざるを得ないものです。「被害者遺族は厳罰を叫ぶものだ」という断定的な定型句は、この高い目線からの用語による解釈であると思います。言葉の使用は構造を規定しますが、「被害者遺族」「厳罰」「叫ぶ」のどれを取っても当人には言葉の暴力であり、しかも負の印象をもたらすはずです。このような構造の設定それ自体が、知的エリート特有の上から目線の表れだと感じます。

 「被害者遺族は厳罰を叫ぶものだ」というレッテル貼りからスタートする議論は、あらぬ混乱をもたらしているように思います。当たり前のことですが、被害者の家族は、人の命を奪ったことに対する償い求めなければならないものです。すると、ここから「中には加害者の厳罰を求めない人もいるのではないか」という小賢しい疑問が湧き出します。さらには、「厳罰を求めるべきだというプレッシャーを与えてはならない」という小理屈にもつながっていきます。

 知的エリートから提示される「厳罰を求める被害者像」は、あたかもその人が昔から「被害者遺族」であったように、しかも自由意思によってその立場を選んだように、政治的な党派の1つとして捉えているものと思います。例えば、「○○党員のポリシー」「○○主義者の信念」のような扱い方です。しかしながら、これは被害者の存在を自己目的化したうえで一方的な解釈を加えたに過ぎず、「社会における必要な犠牲を蒙った者へのお情け」以上のものではないと思います。

 一方では「被害者遺族の悲願は厳罰化である」との命題を立てて構造を作っておきながら、他方ではこれを懐柔したり、恨みや憎しみは醜いとして批判するのは、悪い冗談であるとの感を強くします。個人主義に立脚しつつ、その反面では何の疑問もなく経済社会全体から見た有用性を根拠とし得るならば、単に「人間の欲望と欲望のぶつかり合いの果ては死である」ということを遠回しに正当化しているに過ぎないように思います。

(続きます。)

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