犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

母親に殺されるとはどのようなことか

2008-09-23 23:30:56 | 時間・生死・人生
福岡市西区で18日、小学校1年生の富石弘輝君(6つ)が殺害された事件で、福岡県警は22日、母親の富石薫容疑者(35)を逮捕した。弘輝君の葬儀翌日の21日、福岡県警は任意の事情聴取で薫容疑者に「本当のことを聞きたい」と告げたところ、薫容疑者は「私がやりました・・・」と打ち明け、堰を切ったように号泣したという。薫容疑者は、「最初から殺すつもりはなかった。衝動的にトイレの中で首を絞めた」と供述しているとのことである。小学校によると、弘輝君には軽い情緒障害があり、福岡市の発達教育センターで昨夏「適正就学指導」を受け、特別支援学級に進むことを決めていた。そして、薫容疑者自身も難病を抱えており、「自身が病気を患っているため、子供が不憫で将来を悲観し、子供を殺して自分も死のうと思った」と供述しているとのことである。幼い男の子の死というやり切れない事件は、母親による殺害というさらにやり切れない結果で終わった。

子供が不憫で将来を悲観した。それゆえに、将来の時間を永遠に奪ってしまった。生きている限りの将来であり、生きている限りの不憫さである。殺されてしまえば、将来も不憫もない。それにもかかわらず、殺すという行為を選ぶ。もちろん犯行は衝動的であるが、それゆえに恐らく、犯行に至るまでの葛藤は他者の想像を絶するものと思われる。これは本人にしかわからないことであり、しかも本人にも完全にはわからない。母親であれば、本来は自分の命を犠牲にしてでも子供を守る存在である。そして恐らく薫容疑者も、息子のことを本当に心の底から愛していた。愛していなければ、子供が不憫で将来を悲観することもできないからである。「従って」、母親は我が子を殺してしまった。この「従って」という順接の掘り下げは、殺意や動機といったありきたりの解釈を厳然と拒む。発見時、薫容疑者は何度も弘輝君の名前を呼び、泣き崩れ、救急車に追いすがり「死なせて」と叫んだという。弘輝君の最後の「何で?」という疑問の答えは、この叫びの中にしかない。

一般的に、母親にとって、子供から言われてショックを受ける言葉の筆頭は何か。それは恐らく、「何で自分を産んだのか」「自分なんか生まれて来なければよかった」といったような言葉である。これは存在論的な真実を示している。子供にとっては、その親のところに生まれてきたことは単なる偶然にすぎない。これに対して、母親は自分の体で子供の体を産み出したことによって、「私の子供」という所有格を錯覚する。親子はあくまでも他人である。しかしながら、自分の体によって別の人間の体を存在させたという歴史的事実からは逃れることができない。これが縁であり、愛である。「情緒障害を持って生まれてきてしまった子供が不憫だ」、これは深い愛情である。「子供が不憫で将来を悲観した」、これも深い愛情である。赤の他人であれば、このような心情は絶対に生じることがない。ましてや、このような理由で見ず知らずの他人の子供を殺すことはない。その人間を過去に存在させた者が、未来に向かってその存在を消してしまう。これは、深く存在論的な問題であり、心理学の専門用語による客体的な分析を拒む。

我が子を殺すとはどのようなことか。薫容疑者は、我が子を殺した経験のある者だけが直面する問いを、正当に問いうる地位に立った。我が子に対する愛情表現が殺人であったことは、どんな理由を挙げても許されるものではない。法律が厳罰を与えねばならないことは明白である。しかしながら、この問いの解答は懲役刑の長さとは関係がない。ましてや、精神鑑定における責任能力、心身耗弱といったものは、存在論的な問いを突き詰める際には余計な概念である。答えの方向性は、すでに本人が事件の直後に見せている。捜索に加わった人が、トイレの外壁と柱のすき間で弘輝君を見つけると、薫容疑者は顔が黒ずんだ弘輝君にすがりついて泣いた。救急車で病院に向かう間は、ずっと弘輝君の名を呼び続けた。葬儀の出棺前には、弘輝君の頭をなで続けた。人間の倫理的直観は、これを証拠隠滅のための演技だと評価することを許さない。実の母親に殺されるとはどのようなことか。絶望の中に救いがあるとすれば、それは恐らくこの支離滅裂の矛盾の中にある。


福岡小1殺害、母親を殺人容疑などで逮捕(読売新聞) - goo ニュース

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