犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

問わずにはいられない

2007-03-20 18:55:25 | 時間・生死・人生
ハイデガーが問い続けた「存在」とは、いったい何をどのように問題にしているのか、哲学者でない一般人にはわかりにくい。これが哲学の取っ付きにくさである。しかし、現代社会でも、この問題意識が端的に表れる場面がある。それが被害者遺族の言葉である。

「私の息子を返せ」。「娘はなぜ殺されなければならなかったのか」。「犯人が逮捕されても妻は戻ってこない」。「犯人が死刑になっても夫は戻ってこない」。このようなコメントには返す言葉がない。誰も答えられない。加害者や弁護士はもちろん、裁判官も検察官も答えられない。このような遺族のコメントは、マスコミが一番苦手とするところでもある。非常に重いことはわかるが、キャスターは適切な解説をすることもできず、沈痛な表情を浮かべるのみである。

この被害者遺族の言葉は、ハイデガーが問い続けた「存在」の問題意識に重なる。存在の問いは、人間自身の本質的な格闘である。人間が人間であることに基づく自分自身との格闘である。加害者に対して「私の息子を返せ」と要求することは、この人間存在という不条理なものへの問いでもある。「返せ」と言っても返してもらえない残酷な現実に直面するがゆえに、逆に「返せ」と要求せざるを得ない。問い詰めざるを得ない。これが存在の問いであり、その答えである。問いを問うことが答えである。

社会科学である法律学や、裁判のシステムは、被害者遺族の言葉をまともに聞こうとしない。もし正面からそれを聞こうとするならば、システムが破綻するからである。刑事裁判が最高裁で確定するまでには5年も10年もかかることが多いが、それは正義の実現には時間がかかるという建前に基づいている。しかし、長い裁判が終わった後の遺族のコメントは、裁判のシステムに携わる者や法学者を脱力させる。すなわち、「犯人が死刑になっても夫は戻ってこない」。

もちろん、殺人犯が死刑にされずに無期懲役とされた場合には、被害者遺族からは「裁判所に正義はない」と批判されることになる。どちらに転んでも行き止まりである。「犯人が死刑になっても夫は戻ってこない」という遺族の言葉は、法律学や裁判制度にとっては何よりも恐ろしい。裁判は人間社会の深い問題を何も解決する力を持っていないことが端的に明らかにされてしまうからである。

法律学の枠組では、被害者遺族が「娘はなぜ殺されなければならなかったのか」という言葉によって一体何を聞きたいのか、その次元すら把握できない。そこで、現在の裁判制度においては、被害者遺族の哲学的な問いは避けられ、法律的に答えられる問いのみが取り上げられる。しかし、どんなに遺族の問いを法律的に解答可能な形に変形しても、そもそもの本質的な問いが消えるわけではない。

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