犯罪被害者保護の理念を追求する弁護士であっても、恐らく被害者参加制度について「各論賛成」と言い切ることは難しい。例えば、自動車運転過失致死罪の被害者が身寄りのない老人であり、遺族と呼べる人間が誰もいなかったような場合、これは最も悲惨な孤独死の一形態である。しかし、弁護人は心を痛めつつもホッとする。これが、刑事弁護人という職務を課せられた者の置かれた立場である。
被害者の家族は加害者への厳罰を求めるという社会常識があてはまらない場面は、実際にはかなり物悲しいものである。例えば、非常に仲の悪い夫婦の一方が「死ねばいいのに」と思っていたところに事故が起き、賠償金に加えて遺産も相続する幸運に恵まれ、加害者への厳罰の意思は全くないような場合である。この場合にも、刑事弁護人は虚しさを感じつつも、恐らく心底からホッとすることになる。
刑事裁判における弁護戦術は、被告人の今後の生活や人生設計も計算に入れつつ、損得勘定を基本に組み立てられている。これは、公判での主張に限ったことではなく、容疑者段階から既に始まっている。被告人が自白したり否認したりするのは、その事件に関する証拠物件や証言のみに基づくものではない。将来を見据えた上での駆け引きであり、いわゆる大人の事情に支配されている場面である。
絶対的権力者である裁判官を前にするとき、被告人は「潔く罪を認めて反省する自分の立派な姿」を見てもらおうとする。弁護人のほうは、「素直に反省できるような人格者が偉大でないわけがない」とほのめかす。このような打算を展開しようとしている者にとって、被害者参加制度によって示される言葉は、あまりに裏表のない正論である。刑事弁護人は、純粋な論理を示されると困ってしまう。
(フィクションです。続きます。)