犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その71

2013-11-03 23:01:15 | 国家・政治・刑罰

 公判期日の数日前、検察事務官及び裁判所書記官と電話で期日進行の最終確認をする。被害者の家族からは、意見陳述制度及び被害者参加制度の利用の申し出はなく、従って被害者参加人による被告人質問や論告求刑はない。また、被害者の家族からは、優先傍聴制度の利用に関する申し出もなく、恐らく傍聴席にも来ないだろうとのことである。私は、心の奥底で安堵している。

 私は、自身の経験から裏付けられた持論として、被害者参加制度には一貫して賛成である。しかし、私は現実問題として、この被害者の家族とは法廷で顔を合わせたくないと思っている。私はどんな顔をしていればいいのか。被害者に対する敬意を持った表情とは何だろうか。いや、私の本音はもっと卑怯だ。人殺しの味方だと思われたくない。単に、精神的に疲れる仕事から逃げたい。

 私の知る限りでは、被害者参加制度について「総論賛成・各論反対」という弁護士は多い。自分の仕事の円滑な進行という点においては、裁判官に向かって頭を下げ続け、「被告人は反省していますので刑を軽くしてください」という一点張りで行けるほうがやりやすいからである。登場人物が多ければ話が複雑になり、考えることが多くなる。それだけ、事前に必要な準備も増えてくる。

 実務の現場を見て私が知ったのは、「各論反対」という動かぬ前提から「総論反対」という強硬な主張が導かれる過程であった。そして、「被害者が来ると理性的な法廷が感情的な報復の場になってしまう」という理論を前に真剣に心を痛めていた自分がひどく幼稚に思われた。既得権や利権というものの内実は、自分がそれを享受する立場に置かれてみないと実感できないものである。

(フィクションです。続きます。)

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