犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

危険運転・罰則強化法案を全会一致で可決 衆院本会議

2013-11-06 23:36:05 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞 11月5日19時11分 配信記事より

 衆院本会議は5日、危険な運転による死傷事故の罰則を強化する「自動車運転死傷行為処罰法案」を全会一致で可決した。参院に送付され、今国会で成立する見通し。早ければ来年5月に施行される。法案は、病気の影響で正常な運転が困難になったケースなども危険運転致死傷罪に問えるようにし、最高刑を懲役15年とした。

 また、酒や薬物の影響で死傷事故を起こしたことを隠す目的で逃亡する行為などを罰する「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(最高刑・懲役12年)を新設。交通事故で適用されることの多い自動車運転過失致死傷罪(同懲役7年)は刑法から移し、「過失運転致死傷罪」に名称を変更する。いずれの罪も、無免許だった場合は刑を重くする規定を設けた。


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 衆院本会議場の傍聴席で採決の瞬間を凝視している被害者の家族の姿を、私はテレビのニュースで見ました。現代の日本で「顔」の話と言えば外見の美醜の話題しかありませんが、私は傍聴席の顔を前にして、外見を通り抜けた表情の深さに威圧されて息を呑みました。これは、ちょうどプロ野球の日本シリーズが終わったばかりだという以外の理由はありませんが、楽天の田中将大投手のマウンド上での鬼気迫る形相に驚嘆させられる感触に似ていると感じました。

 田中投手の鬼神の如き形相は、その人生のそのステージに立った者だけが、その見える者にしか見えていない風景を見ている時にのみ表れる相貌なのだと思います。ただ一点に全人生を集中させ、一挙手一投足に魂を込めるということは、私のような凡人には到底考えられないことです。超越した場所に立っている者に対しては、同じ場所に立っていない者は、ただ下から見上げて畏怖の念を抱き、その究極の論理の示すところを沈黙して見ているしかないものと思います。

 星野監督のインタビューの中で、楽天の優勝は東日本大震災の被災者にとっては「雀の涙ほどの癒し」に過ぎないと述べられていましたが、野球は所詮は決められたルールに従ったゲームであり、命まで取られることはありません。震災の直後、まだ日本ハムにいたダルビッシュ投手が「ボールを投げてバットを振り回している場合じゃない」と話していたことも思い出します。だからこそ、このゲームでは、一投に凝縮された超人的な精神力が象徴として鮮明になるのだと思います。

 「被害者遺族が厳罰化を叫ぶ」という政治的な捉え方は、超越した場所に立っていない者がその特権に安住し、大所高所からの理屈を述べているに過ぎないと感じます。本来、人間は精神力の限界において真実のみを求め、それは自分だけでなく誰の人生においても真実であり、ゆえに個の徹底が普遍に至るのであり、同じ経験をしたことがない者は畏怖して沈黙するしかないはずだからです。これは、田中投手から素人がホームランを打てないのと同じ論理だと思います。

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