犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その27

2013-08-18 23:18:23 | 国家・政治・刑罰

 依頼者にとっての「人生がかかった相談」は、弁護士事務所にとっては「数ある相談の中の1つ」に過ぎない。事務所のホームページには、全てのお客様の1件1件に親身になる旨が謳われているが、これは言わば相談者に対する試金石である。この建前と実際のギャップについて苦情を言う者は、社会の仕組みと社交辞令を知らないということだからである。

 現実がホームページの理念の通りに行かないのは、何も弁護士が利益優先で手を抜いているからではない。全ての事件に同時に親身になり、一緒に苦しんでしまえば、肉体的・精神的に持たず、体がいくつあっても足りないからである。弁護士が依頼者に感情移入をして順調に行っているうちはよいが、事件が思うように進まなくなると、かえって信頼関係の崩壊は速くなる。

 社会全体として、顧客から専門家に対する要求水準が高くなるにつれ、弁護士は依頼者からのクレームを想定し、神経を尖らせていなければならなくなる。この点において、自動車運転過失致死罪の被告人は非常に安心であり、好ましい客層に分類される。最初から最後まで弱り切っており、「金を払ったお客様」の攻撃性は薄く、事務所との目線の上下は固定しているからである。

 私は実際にこの仕事に就く前、「人の命を奪った人間」といかに向き合いつつ職務を遂行するのかという点につき、色々と考えを巡らせていた。今では、全てが雲散霧消である。私は、世の中の一番汚い部分を見ながら、それを利用して生き延び、その世の中の1人となっている。そうでなければ、「罪を一生涯背負って生きて行く」といった浮き世離れした台詞を堂々と語れない。

(フィクションです。続きます。)

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