犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その26

2013-08-16 22:37:54 | 国家・政治・刑罰

 刑事公判の弁論手続は、検察官の論告求刑、弁護人の最終弁論、被告人の最終陳述の順番で行われる。既に確立されたルールは、その根拠疑われる対象ではなく、その意義が学ばれる対象である。いかなる対立的な議論も、「最後の一言」を語る者が有利となる。それは、時間的に最新の位置を占め、聞く者の記憶に鮮明に残るからであり、かつその言葉は誰からも反論を受けなかったことを意味するからである。

 私は、このような特権を有する側の者として、それに甘えることのないよう注意を払ってきたはずであった。ところが、以前に書いた自動車運転過失致死罪の弁論要旨を読み返してみると、目も当てられない。その当時には、私は確かに論理の限界まで考え続けたはずであり、内心では得意になっていた。しかし、あまりに無難にまとまりすぎ、論理が綺麗に流れすぎている。与えられたルールに則り、忠実に役割を演じていたことがわかる。

 自白事件における最終弁論とは、お上である裁判官に向かって許しを請う手続きである。被告人の正直な本音としては、「犯した罪を忘れず一生背負い続ける」などということは無理である。また、「真面目に生きて社会の役に立つ人間になることが被害者に対する供養になる」というのも嘘っぱちである。しかしながら、嘘を嘘と知りつつ語るべきことが決まりなのであれば、その決まりを破ることは、単に職務過誤の不祥事でしかない。

 検察官が被告人の所業を責めてくれればくれるほど、被告人には自己を守る正当性が生じることになる。身体の外側の法律に善悪の判断を委ねるべき場では、身体の内側の倫理は退かなければならないからである。被告人にとって、「反省の言葉を語る資格もない絶句」は、お詫びの拒否と不反省の態度を意味する。また、弁護人にとって、「反省の情の深さを示す逆説として重罰を希望すること」は、職業倫理に反する暴走を意味する。

(フィクションです。続きます。)

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