犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その43

2013-09-16 23:55:51 | 国家・政治・刑罰

 被害者の父親からの手紙には、「気が狂うこともなく」「発狂もせずに」という言葉が数か所に書かれていた。考えてみれば、私はこの仕事において、「責任能力」「心神喪失」という法律用語や、「精神鑑定」「精神障害」という医学用語、さらには「うつ病」「離人症」といった具体的な病名の単語は使用してきたが、「発狂」という単語は使う機会がなかった。この単語は、あまりに文学的な扱いを受けていると思う。

 加害者の謝罪の手紙に書かれていた言葉は「お悲しみ」と「お怒り」であり、刑事弁護人が対応を迫られるものは「被害感情」や「厳罰感情」である。この生温さを吹き飛ばすものは、「発狂」以外にはない。この手紙で伝えられるものは、発狂でなければならない。言うなれば、ニーチェの馬、あるいは山月記の李徴の虎である。発狂もできないということは、発狂寸前で踏みとどまっているということとは全く違う。

 例えば、直接的な憎悪むき出しのネットの書き込みに比すれば、この手紙には怒りも悲しみも書かれていない。ただ、「通夜も告別式も記憶になく、気がついたらお骨になっていました」といった事実が淡々と綴られているのみである。刑事弁護人は、この異次元の言葉を強引にこちらの世界に引き戻し、「お悲しみ」と「厳罰感情」に変えてしまう。ここには、憐憫の念による上から目線のみがあり、狂気からは距離が置かれている。

 もし、被害者の家族の発狂によって、第三者を巻き込む大事件が起きたらどうなるか。そして、マスコミによって、「加害者の弁護士からの一言が引き金になった」と報道されたらどうなるか。刑事弁護人には初めて火の粉が降りかかり、事務所は存亡の危機に立たされる。しかしながら、恐らく全ての弁護人は、そのようなことは起きるはずがないと高を括っている。これは、狂気の対岸での安住である。

(フィクションです。続きます。)

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