犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その44

2013-09-18 22:45:20 | 国家・政治・刑罰

 被害者の父親の手紙には、息子は何が好きだった、どのような性格だった、どんな夢を持っていたということが詳しく書かれていた。私はこの部分を読み進めるに至って、「悲劇のヒーロー」からの手紙であるような錯覚を持った。これは、従来の犯罪被害に関する報道、すなわち「お涙頂戴」のマスコミの影響である。人は思考力を失う状況に置かれるほど、従来頭の中にある言語の体系でしか表現できないはずだからである。

 私がこの部分を読んでいることを察して、依頼者の父親が、「こんなことを書かれても困りますよね」と声を掛けてくる。明らかに被害者やその家族に対する同情が薄らぎ、反発を感じている声である。世の中では、もとより赤の他人の好みや夢など無関心の範疇に属するものであり、急に全てを受け止めるべき立場に置かれても、具体的に何をすればよいのかわからず困惑しているということである。

 この手紙に向けられた依頼者と父親の視線を見ていると、依頼者は具体的な論点の議論ではなく、論点のそれ自体の獲得に関する主導権争いをしたがっていることがわかる。被害者の父親のほうは、その日に会社で受けた電話での第一報から、病院に向かうタクシーの様子まで、時間が止まったように、映像の1コマ1コマを詳細に描写している。これに対し、依頼者の父親のほうには、あくまでも対人無制限の自動車保険の話が中心にある。

 結局、この手紙には「報復感情」なるものは書かれていなかった。実際に書かれていたのは、選挙権を行使するときのような公共的な正義への希望であり、私欲を離れた「社会をより良くしたい」という願いであり、将来的に同じ経験をする可能性のある者に対する心情の忖度であった。ここでは、被害者の父親のほうが私を慮っており、私は彼から共感されている。私は、現在ではこのような経験をしておらず、かつ将来的に経験をする可能性のある無数の人間のうちの1人だからである。

(フィクションです。続きます。)

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