犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その42

2013-09-15 23:07:36 | 国家・政治・刑罰

 依頼者が書いた手紙のコピーに続いて、亡くなった被害者の父親から依頼者に宛てられた手紙を手にする。こちらは実物である。B5のレポート用紙数枚に、水性ボールペンで消え入りそうな文字が書かれているのが見える。「拝啓」も「前略」もなく、受取人の名もなく、いきなり「私は」で始まっている。このような手紙と向き合うたびに、私は形式的なビジネスマナーの無意味さを思い知らされる。

 しかしながら、私はこの打ち合わせが終われば、「拝啓・敬具」と「前略・草々」を適宜使い分け、書面の内容以上に形式に気をつけつつ、ビジネスマナーに従った書面の作成の仕事にすぐに戻る。そして、事務所に送られてくる書面を見るときには、その文面の形式から相手方のレベルを推し量る。社会人・組織人の常識にどっぷりと浸かってしまった私は、亡くなった被害者の父親からの手紙を心のどこかで憐れんでいる。

 触れるのが恐ろしかったその手紙は、読み進めるうちに、すぐに怖さを失った。そして、「心して向き合わなければいけない」「重いと思わなければならない」という私自身の道徳感だけが残された。この手紙は、小説家が書くような、読み手がぐいぐい引き込まれる文章ではない。右から左に流れてしまう。しかし、この流れ方は、加害者の謝罪の手紙の言葉がスラスラ流れてしまうのとは全く違う。

 加害者の手紙には誤字脱字が皆無であったのに比して、被害者の父親の手紙には誤字があり、話もあちこちに飛んでいる。魂の抜けた人間によって書かれているという事実、そして気力を振り絞って書かれているのではないという事実が、重さの実感を遠ざけ、平らな感じを生んでいるのがわかる。言葉が読み手に迫って来なければ、論理は空回りする。すなわち、「悲劇のヒーロー」からの手紙であると読み違えられる。

(フィクションです。続きます。)

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