犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

少数派尊重のルサンチマン

2007-10-01 17:52:23 | 実存・心理・宗教
立憲民主主義とは、単なる多数決ではなく、多数派の横暴に歯止めをかけて少数派の人権を保障することを目的とする民主主義である。理念としては非常に立派であり、日本国憲法もこの理念に沿っているはずであるが、実際問題として上手く行くはずがない。常に少数派が満足するように多数派を抑制しようとすれば、膠着状態となって何も進まなくなる。逆に、少しでも事態を前に進めようとすれば、必ず少数派の反対に直面し、強行採決であると非難されることになる。このイデオロギーが上手く回らないのは、メタのレベルでは「少数派の意見も尊重しなければならないこと」それ自体は多数派でなければならず、それ自体が少数派であれば少数派は壊滅するからである。

誰しも好き好んで少数派になるわけではなく、できれば多数派になりたい。これは当然である。それゆえに、少数派はその欲望を押し殺し、少数派であることを前面に出そうとする。これは、負け惜しみそのものを隠そうとするルサンチマンの典型である。選挙のたびに「確かな野党が必要です」と主張する政党も、与党になる気がないわけではなく、1つでも議席を増やしたくて仕方がない。このような政治的な少数・多数の争いにおいては、立場が変われば、人間は自分が述べたことをコロッと忘れる。もし政権交代によって野党が与党になったとすれば、「少数派を保護すべきである」という主張はあっという間に忘れられるのも当然である。根本にルサンチマンを抱えた立憲民主主義が上手く回るわけがない。

多数派と少数派はいつでも入れ替わる可能性がある、これが立憲民主主義の根拠である。しかし、多数派が多数派であり、少数派が少数派であるという論理の形式については絶対に動かない。これは、「多い」という言葉が「多い」を意味し、「少ない」という言葉が「少ない」を意味していること自体は多数決で決められる事項ではないことと同じである。従って、「少数派を保護すべきである」という主張は、その少数派であるという形式を用いつつ、実際にはその内容、すなわち賛成・反対の主義主張のほうを基準に置いていざるを得ない。これが政治的な権力争いというものである。誰しも多数派になりたくてなりたくて仕方がないゆえに、選挙運動で声をからし、市民運動で署名を集め、世論を盛り上げようとする。しかしながら、もし少数派が少数派であることを正当化の根拠にするならば、このような行動は説明がつかない。できる限り数を増やさないように、世論に触れないように大人しくしていなければならないはずである。

野党を支持している人は、政権交代によってその支持政党が与党になることを望み、それによって多数派になろうとする。しかし、そんな気が遠くなることをしなくても、一瞬にして多数派になる方法がある。自分が野党の支持をやめて、与党の支持に乗り換えればいいだけである。「そんなことはできない」と言われても、別に誰が命令しているわけでもなく、自分が好きで少数派の意見を選んでいるのだから仕方がない。嫌なら替わればいいだけのことであり、今さら変えられないというのは本人の引っ込みがつかないというだけの話であって、他の誰のせいでもない。これができないのであれば、少数派である限り「少数派を保護すべきである」と叫び続けるのも、本人が好きで選択した結果である。実際のところ、偶然受かった大学の偶然入ったゼミの教授や先輩に感化されてその主義主張を支持するようになったという程度の話であれば、自らが少数派であることに固執する意味はほとんどない。

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