犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その73

2013-11-07 22:26:26 | 国家・政治・刑罰

 公判当日、法廷の傍聴席には、被害者側の親族・友人・関係者と目される人は誰も来ていなかった。他方で、加害者側の親戚・友人・会社の上司などの関係者が合計10人ほど集まっており、事前に予定していた人数よりも多かった。いかにも支援者団体という雰囲気であり、私は何となく気が重くなった。これならば、被害者側の関係者が詰め掛けていたほうがやりやすい。

 刑事法廷という場所では、生産性のある仕事は何一つ行われていない。そして、法廷の柵の内側にいる者は、法曹三者から裁判員、被告人から証人に至るまで、好きでこんな場所にいるわけではない。楽しくも何ともない場所であり、楽しくあってはならない場所である。裁判のドラマで役者が生き生きとしているのは、それが自分のやりたい仕事であり、生産性があるからである。

 法廷の柵の内側は厳粛な手続きが行われる聖域であり、傍聴席はそれよりも下界に近い。これが世間のイメージである。しかし、私の実感は全く反対である。法廷の内側は動物園の檻の中のようだ。こちら側にいる者は、その一挙手一投足が見せ物である。そして、その場の空気を支配するのは、観客であるところの傍聴人である。特に、好きでこの場所に来ている傍聴人である。

 依頼者が「こんな格好悪い情けない姿を見られたくない」と思っていたのであれば、彼は友人知人までが傍聴に来ることを断固として拒んだはずである。これは弁護人が指図する事柄ではなく、彼の選択である。そして、傍聴席にいる支援者は、厳しい目を彼ではなく私に向けている。それは、「彼にこれ以上恥をかかせたら許さない」という目だ。柵の内側で、恐らく私が一番苦しい。

(フィクションです。続きます。)

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