ハイデガー哲学の地点から眺めてみれば、人権論はニヒリズムの変形である。すなわち、宗教的な神に代わって、人権というものを神の地位に置いている状態にすぎない。日本国憲法におけるその典型が、信教の自由(憲法20条)である。
神は存在するのかしないのか。キリスト教と仏教とイスラム教ではどれが正しいのか。このような問題は、ここに自分の人生が存在することの根拠と不可分一体である。自己の生死の問題と表裏一体である。従って、神も仏も存在しないという無神論は、物事を深く考える人間にニヒリズムの恐怖をもたらす。神も仏も存在しないならば、自分の人生にはいったい何の意味があるのか、その答えがすべて消えてしまうからである。
ここで、信教の自由という人権思想は、「神を信じる自由もあり、信じない自由もある」「神を信じるならば、どの神を信じてもよい」という価値判断を述べる。これは、一見すればすべての問題の解決のようにも見える。しかし、実際には、「信教の自由」という新たな価値が絶対化されているだけである。「信教の自由」という宗教的なものを神の代わりにしているにすぎない。人権論は、哲学的な問題をも解決するパラダイムを提供したつもりになっているが、実際には哲学的な問題を鈍感に回避しているだけの話である。
「神を信じる自由もあり、信じない自由もある」という原理を新たな「神」とする限り、人権論はここで行き止まりになる。それは、無神論の恐怖、ニヒリズムの恐怖の先送りである。ハイデガー哲学からすれば、このようなニヒリズムを避ける思想は、それ自体不完全なニヒリズムであり、ニヒリズムの変形にすぎない。従って、犯罪被害者遺族が抱えているような人間の生死の問題には、人権論のパラダイムでは全く歯が立たない。
神は存在するのかしないのか。キリスト教と仏教とイスラム教ではどれが正しいのか。このような問題は、ここに自分の人生が存在することの根拠と不可分一体である。自己の生死の問題と表裏一体である。従って、神も仏も存在しないという無神論は、物事を深く考える人間にニヒリズムの恐怖をもたらす。神も仏も存在しないならば、自分の人生にはいったい何の意味があるのか、その答えがすべて消えてしまうからである。
ここで、信教の自由という人権思想は、「神を信じる自由もあり、信じない自由もある」「神を信じるならば、どの神を信じてもよい」という価値判断を述べる。これは、一見すればすべての問題の解決のようにも見える。しかし、実際には、「信教の自由」という新たな価値が絶対化されているだけである。「信教の自由」という宗教的なものを神の代わりにしているにすぎない。人権論は、哲学的な問題をも解決するパラダイムを提供したつもりになっているが、実際には哲学的な問題を鈍感に回避しているだけの話である。
「神を信じる自由もあり、信じない自由もある」という原理を新たな「神」とする限り、人権論はここで行き止まりになる。それは、無神論の恐怖、ニヒリズムの恐怖の先送りである。ハイデガー哲学からすれば、このようなニヒリズムを避ける思想は、それ自体不完全なニヒリズムであり、ニヒリズムの変形にすぎない。従って、犯罪被害者遺族が抱えているような人間の生死の問題には、人権論のパラダイムでは全く歯が立たない。