犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 34・ 生命が大切であれば死刑も大切である

2008-04-20 00:58:28 | 時間・生死・人生
すでに広く問われている問いは、それに対応する答えを前提としている。例えば、「自分の身内が殺されたとしても、人間は死刑を望まずにいられるのか」。これは死刑存置論の問いである。これに対し、「執行の日が来るのを怯えている死刑囚の恐怖はいかばかりか」、「冤罪によって死刑を宣告された被告人の絶望はどんなに深いか」といった問いは、死刑廃止論を前提としている。これらの問いに対して、答えの出ない問いは、刑事法学界においても一般社会においても広く問われていない。例えば、「自分が殺された場合、犯人に死刑を望まずにいられるのか」。これは死の定義からして、論理的に解答不能な問いである。「もしあなたが殺人罪を犯して、死刑を宣告された場合、あなたはその刑を受け入れることができるか」。これも殺人の経験がない者にとっては、解答不能の問いである。「遺族」や「死刑囚」の身になることと、「死者」や「殺人者」の身になることとでは、その質が明らかに違う。後者は、形而上学でしか扱えない。

日本国憲法は、「個性の尊重」に加えて「生命の尊重」を規定し、人間が生きることはそれだけで素晴らしいと規定している。こうなると、人間は必ず死ぬものであるという事実は、必然的に遠ざけられる。もちろん、憲法にも人間の死については触れられておらず、戦後民主主義教育の中でも人間の死は隠蔽されてきた。しかし、人間は必ず死ぬものである限り、この生命尊重の思想は、初めから転倒することを免れない。生きることの素晴らしさは死ぬことに依存している、この恐るべき事実は、やはり形而上学においてしか語れない。死刑論議となると、「大衆が感情的に凶悪犯の死刑を叫び、冷静な議論を妨げている」という構図が描かれ、いざ死刑が執行されると専門家のほうが感情的に抗議声明を出すのがいつものパターンである。しかしながら、死刑問題は「感情」でも「冷静」でもなく、「虚無」によってしか語れない。死刑囚が再審によって無罪を勝ち取り、死刑台から生還したところで、いずれは必ず死ぬ。無邪気に生還を喜べるのは、死を忘れた人々のみである。

戦後民主主義の「生命の尊重」から演繹的に考えれば、必ず死刑廃止論に分がある。なぜなら、被害者はすでに死んでおり、加害者はまだ生きているからである。この時間の差がある限り、生命尊重の思想は、死刑廃止論に有利な論拠をもたらす。世界の潮流が死刑廃止に流れているのも、近代憲法の生命尊重の理論の演繹に基づくものである。人間が生きることは時間の中に生きることであり、人間が死ぬことは時間性を失うことであるならば、この構造から逃れることはできない。被害者がすでに死亡し、加害者がまだ生きている限り、その状況は「生きている者をあえて殺すのか」「わざわざ新たな殺人をするのか」との問いを許容する。そして、時間が経てば経つほど、最初の殺人行為と死刑執行との関連性は薄くなってくる。遺族の怒りも徐々に収まることが多く、世論による犯人への怒りも沈静化し、事件を覚えている人もあっという間に減って、事件はどんどん風化する。これが時間性の必然である。被告・弁護側による裁判の引き伸ばし策は、この性質を狙ったものである。

いじめ自殺が起きるたびに必ず聞かれる「生命の大切さ」「命の重さ」といった単語も、死者の死の重さを述べたものではなく、現に生きている人に自殺を思いとどまらせるためのものである。死は死の方向からしか語れないはずであるが、生命の尊重を絶対化する理論においては、死も生の方向から語られてしまう。「生命の尊重」といった言い回しは、誰にも反対できないほど正しく、尊い言葉である。従って、その言葉を口にした途端、言われたほうは手も足も出ない。こうして、生死の一体性は見えなくなる。現代では、軽々しく「死ね」「殺す」などの悪口が言われることが多いが、これが悪口になることが大前提とされていることにおいて、死の重さについての共通の理解がある。これに対して、「生命の尊重」とのお題目は、皮肉にも人間に死を忘れさせ、逆の意味で生命を軽々しくしている。死刑論議においても、被害者の生と死、加害者の生と死の4要素は一体不可分であるにもかかわらず、死を忘れて生を見る限り、死者は完全に無視される。すなわち、加害者の命の重さはいくらでも要求するが、被害者の命の重さは全く引き受けられない。


「死刑、信じて待つ」=光市母子殺害判決を前に-遺族の本村さん(時事通信) - goo ニュース

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