犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 35・ 仇討ちの連鎖を止めるとはどのようなことか

2008-04-20 15:01:21 | 言語・論理・構造
社会契約論を前提とする近代国家は、国家権力において刑罰権を独占し、国民による自力救済を禁じた。ここまでは、近代国家に生きる者にとって共通了解の事項となっている。問題はこの先である。国家による刑罰権の独占は、果たして殺された被害者の遺族における自力救済の要求をも含んだものなのか。言い換えれば、仇討ちの代理をするものなのか。ここは、一義的に決まるものではない。どんなに学者が紙の上で精緻な議論を組み立てたところで、現実にこの近代国家を生きているのは、具体的な感情を持った国民だからである。

被害者が「目には目を、歯には歯を」の論理によって、加害者に直接復讐してしまえば、国家は滅茶苦茶になる。従って、憎しみの連鎖を断ち切らなければならない。そのためには、国家による刑罰権の発動は、被害者の自力救済の要求を汲み取り、その憎しみを昇華するものでなければならない。人間の具体的な感情を直視してみれば、通常はこのように考えられるはずである。個人によって仇討ちをすることを許してしまえば、憎しみと殺人の連鎖が止まらなくなるが、人類は歴史の経験を通じて、この愚かさを知った。ゆえに近代国家は、この連鎖を断ち切るために、国家による代執行として、死刑制度を位置づけた。本来であれば、被害者遺族は犯罪者を死刑にしても溜飲が下がるわけではないが、国家の名による死刑によって、何とか憎悪の悪循環を抑えることができる。このように考えると、論理的に死刑を廃止する理由などなくなり、死刑存置論が導かれる。

これに対して、死刑廃止論は、国家権力における刑罰権の独占を、被害者の自力救済の要求を汲み取るものとは考えない。すなわち、被害者の憎しみを受け止め、その代執行をするものとは考えない。自力救済の禁止とは、あくまでも禁止であって、それ以上のものではないということである。被害者遺族が無期懲役の判決に落胆し、「死刑にしてほしかった」と語れば、それ自体が憎悪の悪循環であるとされる。遺族は犯罪者を死刑にしても気が済むわけではないのに、「目には目を、歯には歯を」の論理によって死刑を求めるのは、仇討ちの連鎖を維持するに他ならず、前近代的であるとされる。すなわち、憎しみの連鎖を断ち切らせるためには、被害者遺族における「犯人を殺してやりたい」との意志そのものを断ち切らせなければならない。遺族が国家権力を通じて間接的に仇討ちを実現するのでは、憎しみの連鎖が断ち切れていないことになるからである。

死刑存置論も死刑廃止論も、国家が刑罰権を独占していること、そして仇討ちの連鎖を止めなければならないことについては、共通の理解がある。しかし一方は、仇討ちを止めるためには死刑制度が必要であると語り、他方は仇討ちを止めるためには死刑制度は廃止すべきだと語る。ここには、双方において論理の飛躍がある。ここは言語の限界である。生死の問題は実証的な論証できないため、どうしても最後のところで飛躍しなければならない。そして、飛躍したところに戻ってその穴を埋めることができるのは、理屈としての言語の力ではなく、語らずに示される沈黙の力である。少なくともこの光市母子殺害事件において、本村洋氏における「私は1人の人間として苦しんでいる」との姿勢は、具体的に地に足のついた人間の声として、多くの人間の心の琴線を揺さぶった。これに対し、安田好弘弁護士や今枝仁弁護士らにおける「俺は真理を知っている、わからない奴はバカだ」との上から目線は、多くの人間に嫌悪感を与えた。これだけは確かである。


「死刑判決を待つ」 光市で本村さんが会見(共同通信) - goo ニュース

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