犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

秋葉原無差別殺傷事件判決 前半

2011-04-08 00:01:35 | 国家・政治・刑罰
 3月24日、東京地裁において、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告に死刑判決が言い渡されました。この判決は東日本大震災の報道の影に隠れ、本来議論されるはずの問題が消えてしまいましたが、このような意味での議論には元々意味がないと思います。
 被害者参加制度に基づいて法廷で意見陳述し、死刑判決を求め続けた被害者の遺族の方々にとっては、今回の大震災は別の国の出来事であったものと想像します。そして、この世界が別であるということが、震災の1万人を超える死者を統計上の数字としてではなく、1人の人生の終焉に対する畏怖の感情をもって捉えることにも通じるのだと思います。

 加藤被告の弁護人は、例によって精神鑑定を求めて責任能力を争いました。また、被害者らの多くの供述調書について証拠採用に同意しなかったため、被害者や遺族ら42人は法廷で証言することを強いられ、辛い記憶を掘り起こされました。そして、弁護人は3月31日、死刑判決を不服として東京高裁に控訴しました。これらのどの行為を取ってみても、被害者遺族にとっては、全身を地面に叩き付けられた上で引きずり回されるような感触であろうと思いますが、経験者でない私には想像を絶することです。
 私は、学生の頃には、刑事弁護人が良心の呵責や逡巡もなくこのような法廷闘争を行えるのは、純粋なイデオロギーの力であると思っていました。そして、自己の正義の実現のために、被告人を政治的に利用しているのだと考えていました。しかしながら、法曹界の中で何年か実際の裁判の営みを見てみると、事態はもう少し複雑かつ不純であり、「大人の事情」があるのだということもわかってきました。

 社会の中で円滑に仕事をして行くためには、仕事上のミスをいかに上手くやり過ごすか、その技術を習得することが不可欠となります。世の中を無難に渡っていくためには、究極的には隠蔽による自己保身も必要となることを知らなければならず、馬鹿正直では身が持ちません。そして、最も有効な対応策は、ミスを犯さないように予防線を張っておくことです。「危機管理」「リスクマネジメント」などの用語は、これらが体系的に理論化されたものだと思います。
 経済社会の中で働いて収入を得て、生活を維持していくためには、お金にならない思考を抑えることも必要になります。仕事の具体的な場面で、何か問題が起きたときに役立つ技術は、多くの場合、自己弁護・正当化・詭弁・屁理屈といったものです。他方で、正義・信念・善悪・生死といった思考の切り口は、具体的な問題解決の場面では全く役立たないのが通常のことと思います。リスクマネジメントが語られている現場では、その理論の体系性とは裏腹に、実際にはこのような圧力が支配しているように思われます。

 そして、この圧力は、会社員も弁護士も全く同じです。弁護士の仕事上のミスは「弁護過誤」と呼ばれ、損害賠償を請求されるほか、弁護士会の懲戒処分の対象ともなります。これは、自由業である弁護士にとっては何よりも恐ろしいものであり、弁護士賠償責任保険の制度も充実しているところです。大きな弁護過誤ともなれば、弁護士、依頼者その他周囲の多数の人々の人生設計にまで狂いが生じる可能性があります。
 弁護人が被害者遺族を目の前にして、被告人の人権を守るための法廷闘争を展開する場合、一般に左翼的と言われているところのイデオロギーの力は、想像していたよりも弱いというのが私の感想です。それよりも、弁護過誤を問われることの恐怖感が根底にあり、それが弁護士の一瞬の言動の選択を支配している事実に気づくことは多くありました。そして、この恐怖感が、1人の人間としての被害者遺族の心情を想像する力を鈍らせている現実にも気づくようになりました。

(後半に続きます。)

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