犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その50

2013-09-30 22:22:24 | 国家・政治・刑罰

 私は以前に勤めていた事務所で、自分の考えというものを述べることがほとんどなかった。仕事の手順を覚えるのとミスをしないことに精一杯で、その背景まで頭を働かせる余裕がなかったこともある。しかし、私が世間知らずのお坊ちゃんであり、経験豊富な先輩からの冷笑に圧倒されて、「そうですね」という追従以外に方法がなくなったというのが最大の理由である。

 私はその時、特別に嘘つきや臆病であったとの思いはなく、単に組織に忠誠を尽くす社会人であったとの記憶である。いったい、満員電車に揺られて日々同じ経路を往復する会社員のどれほどが、目の前の1つ1つの出来事について疑い、自分の頭で根本的に考えることができるだろうか。この部分は、理論武装が自己目的化している法学者への軽蔑の念と同種である。

 実際のところ、大学院で頭でっかちになった新人弁護士など、多数の顧問先を抱えて社会的に成功しているボス弁(所長弁護士)の前では惨めなものだ。交通とは、この世間においてヒト・モノ・カネを動かすための生理的現象であり、その病理である事故によってヒトが死に、またカネが動く。ボス弁に言わせれば、交通事故に関する弁護士の活動とはその程度のものだ。

 百戦錬磨のボス弁は、被害者側との交渉が巧みだった。電話をしては先方から一方的に話させ、事務所に呼んでも一方的に話させ、気がつけば「厳罰は求めません」という念書を手に入れている。これは、大人の解決はお金しかなく、これが理解できない人間に対しては気が済むまで言い分を聞いてやり、ガス抜きをさせれば何とかなるという経験の裏付けによるものだった。

(フィクションです。続きます。)