犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その45

2013-09-19 23:07:53 | 国家・政治・刑罰

 この事故に関し、依頼者と父親が前提としている損害とは、治療費、遺族の交通費、死体検案書作成料、葬儀関係費用、死亡慰謝料、逸失利益(基礎収入額×生活費控除率×就労可能年数に対応するライプニッツ係数)等である。これは、日弁連交通事故センターの「民事交通事故訴訟・損害賠償額算定基準」によってシステム化され、マニュアル化され、保険会社が弁護士の仕事を進めるうえでの基礎中の基礎の知識となっている。

 これに対し、被害者の父親が手紙の中で前提としている損害とは、端的に「存在」である。事故による損害は、「息子が存在しなくなったこと」以外ではあり得ない。すなわち、「命があること」「命があったこと」という基本中の基本を差し置いて、細かい理屈で損害を数字で算定したところで、それに何の意味があるのかということである。この「損害」は金銭的に評価できるはずもない。金銭に換算してしまえば、何もかも終わりである。

 一般的に損害賠償が問題となる事件について、加害者側の弁護士は、「被害者から金銭を請求されたならば話は簡単だ」と口を揃える。お金の問題になってしまえば、あとは加害者がそれを支払えるか否か、資力の問題のみとなるからである。ここで行われるのは、双方の利害の調整と、被害者の金額に対する不満を説得することである。これに対し、被害者が「お金の問題ではない」と語るとき、加害者側の弁護士は難しい立場に置かれる。

 私は、もはや「償い」について時間をかけて試行錯誤できる学生ではなく、目の前の顧客のために仕事をし、報酬金を得て生計を立てている実務家である。学生のような煩悶は、お金に苦労したことがない恵まれた人間の余暇となる。さらに、現在の経済社会では、古典的な煩悶すら時代錯誤となり、デジタルの情報によって人間の脳もデジタル化してしまったように思う。そして、アナログ的に残るものは、定型的な「癒し」に追いやられる。

(フィクションです。続きます。)