犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その49

2013-09-29 23:17:13 | 国家・政治・刑罰

 別の先輩の弁護士も、その母親の手紙を読んだ感想を私に語ってきた。この先輩は、苦労して司法試験に通った人物であり、仕事の要領も良いとは言えないが、私がこの事務所の中で一目置くことができていた唯一の先輩であった。青二才である私は、この先輩が語る社会の矛盾の救い難さ、現実との折り合いの際に示される諦念を恐れてもいた。

 先輩は、「弁護士なんていうのは本当にどうしようもない仕事だ」と語った。私も心底から同意した。死者の逸失利益という考え方は、人間のある面を卑しくする。年収で人の価値が図られる事態は、生きている者よりも、死者のほうが必然的かつ絶望的である。死亡直前の給与額によって人の一生が値踏みされ、死者は何も言うことができない。

 損害賠償の理論は、人間の存在価値をすべて金銭に換算する。ここにおいて、「立派な仕事をしているから高い収入を得られる」という原因と結果の論理関係は逆転する。「年収が高い者はそれだけ重責を担っている」という推定が絶対的になるということだ。そもそも、弁護士が依拠する社会的評価なるものは、「一生懸命に仕事をする」という真摯な姿勢を指すわけではない。

 先輩は次のように語る。「人の一生を金銭的に安く見積もられたことの絶望は、結果として狂気を抑制してしまう。どんなに高い金額で命は償えないが、その金額を安く抑えようとする卑しさへの怒りは並行して発生する。人は、この論理の相手をさせられると、『存在そのもの』と向き合い続ける狂気から解放されてしまう」。私は、この点は事実としてその通りだと思った。

(フィクションです。続きます。)