犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その38

2013-09-08 22:29:38 | 国家・政治・刑罰

 公判の期日が近づき、被告人である依頼者が法律事務所に打ち合わせに来る。情状証人として法廷に立つ予定の父親も一緒である。依頼者は、亡くなった被害者の家族に送った手紙の控えのコピーと、その数日後に被害者の家族から送られてきた返事の手紙を持参した。私は、この2通を並べて机の上に置き、順番に目を通してゆく。

 まず、依頼者が書いた手紙のコピーである。B5版縦書きの便箋に、ペン習字のお手本のような文字が整然と並んでいる。私は瞬間的に、自分はこのような手紙を書く立場には置かれたくないという本能的な価値判断と、現に自分がその立場に置かれていないことの安心感を有している事実が脳裏をかすめ、それを否定する。

 依頼者が送った手紙を読み進めていく。「皆様方のお怒り」「お悲しみ」という言葉が何回も使われており、私はそのたびに引っかかりを感じる。被害者側の内心を丁寧語とともに断定する権利は加害者にはないと言っても、私に対案は思い浮かばない。ただ、慎重に選ばれた言葉のうちに、消し難い自己保身の意思を読み取るのみである。

 依頼者は全面的に罪を認め、手紙の中で「申し訳ございません」「お許し頂けるとは思いません」と繰り返している。被害者の家族がこの手紙を受け取って読んだ瞬間、構造はぐらりと動いたはずである。ひたすら謝っている人間を責め続けることは、責める側に自己嫌悪を生じるからである。その意味で、潔い謝罪の手紙は暴力的である。

(フィクションです。続きます。)