犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その41

2013-09-13 21:29:28 | 国家・政治・刑罰

 周知のとおり、刑事弁護人の仕事はドライかつシビアでなければ務まらず、感情に動かされることは職務過誤に通じる。そして、そのことが、「人間の求める裁判」とは異なる制度を生んでいることも事実だと思う。法治国家は、人間の胸が張り裂ける精神の限界までも、司法による白黒のシステムに引き入れる。そして、そこで示されるものは、多くの場合、「司法の限界」や「法の壁」である。

 この依頼者が書いた手紙から誠意が感じられるか否かと問われれば、私は「感じられない」と答えざるを得ない。では、どうすれば誠意のある手紙になるのか、代わりに文面を考えられるのかと言えば、私もそのような言葉は持ち合わせていない。代替案のない批判は無責任であり、建設的な議論ではないと言われても、ここは頭で考えた理屈ではなく、現にそうなのだとしか言えない事態である。

 依頼者は、先方に逐一ボールを投げ返し、被害者側に自由を与えている。いわく、「許してもらおうとは思わない」。「言い訳をするつもりはない」。自由が先方に移った以上、加害者のほうはこの点の責任を免れる。誠意が誠意でなくなるのは、この技巧的な部分である。加害者がいくら謝罪しても、被害者側が聞く耳持たずであり、加害者がどうすればいいのか途方に暮れるという力関係が出現するからである。

 自白事件において、被告人が書いた手紙を証拠として出すことが妥当かについては、単に「被告人に有利であれば出す」という身も蓋もない基準に従っていれば安全である。この被告人の手紙には、反省の念、お詫びの言葉、法の遵守への決意がしっかり書かれている。また、丁寧な文字で書かれ、誤字脱字もなく、最低限の文法も守られている。法廷では、行間を掘り下げるだけの時間もない。

(フィクションです。続きます。)