犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その47

2013-09-24 22:08:54 | 国家・政治・刑罰

 母親からの手紙に目を通したイソ弁(勤務弁護士)の1人も、自身の感想を述べていた。この先輩の弁護士は、日本で一番有名な大学を卒業し、一発で司法試験に合格しており、なぜこんな「町弁」の事務所にいるのかという人物である。保険法を専門に学んでいただけあって自動車保険の知識も豊富であり、頭の回転が早く、所長に重宝されている。

 先輩は、次のような意見を述べていた。「現在の車社会では、そこから生じるリスクを国民の全員で負うべきとのルールが擬制されている。言わば現代版の社会契約である。国民は社会的なリスクの分散・分担に合意している。明日は誰が加害者になるか被害者になるかわからない。加害者は全財産を差し出せと言われるならば、誰も怖くて運転などできなくなる」。

 持論の展開が怒りを帯びてくるのは、所長も先輩も同じである。「ある程度の死亡事故の発生は、社会的なリスクの想定内である。この想定を突然ひっくり返されれば、システムは破綻する。国民は全員が潜在的に被害者なのであり、たまたま特定の被害者が生じたとしても、全員でリスクを負った結果であることは動かない。これは理解してもらわなければ困る」。

 先輩は最後に、「子供が死んだのなら理解したくないのも気持ち的にわからなくはないですが」と付け加えた。私は、自分の内心に沸き起こる反発の念がひどく稚拙であり、大局観を欠き、プロとして失格であるように思われてきた。私は、机上の空論ばかりを切り回す学者が嫌いで、実務家を目指したはずであった。しかし、気がつけば私の頭の中は空論ばかりである。

(フィクションです。続きます。)