犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その40

2013-09-10 22:31:33 | 国家・政治・刑罰

 私は、この依頼者の手紙を読み進めつつ、心の中では自分自身の保身を考えている。刑事弁護人は民事の損害賠償事件の代理人ではなく、指導の義務も権限もない。自分が刑事弁護人に就く前に書かれた手紙に対しては、私には何も責任はない。このような思考パターンは、もはや職業病を通り越し、職業倫理という生理現象となっている。

 それにしても、依頼者が書いた手紙はスラスラと読みやすく、理路整然と流れすぎている。被害者の自宅を訪れてお詫びしたい旨を申し入れたが、会いたくないと断られたため、被害者の家族の心情を第一に考え、やむなく断念したとのこと。保険会社の担当者からも、必ず会社を通すように言われ、やむなく連絡ができないでいるとのこと。等々である。

 依頼者が手紙に書いていることは、どこがどう違うというのではない。実際にその通りであろうと思う。加害者側として最善を尽くしたいのに、やむを得ず障害にぶつかって非常に残念であり、しかも言い訳をするつもりは全くなく、自宅で反省の日々を過ごしているのだという。このような内容が、丁寧な文字で綴られている。

 私は、あまりに整然とした型通りの文章に、小中学校時代の「反省文」をふと思い出す。何かあるたびに生徒が書かされていたものであり、その馬鹿馬鹿しい儀式の形式自体に意義があったものである。反省文は、書いている時点で既に勝ちであり、その反省のポーズは一種の笑いを伴う。やるべきことはやって、「文句あるか」という状態である。

(フィクションです。続きます。)