犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その36

2013-09-04 22:54:28 | 国家・政治・刑罰

 人の世の責任逃れ、責任の押しつけ、責任転嫁は、個人の生存を揺さ振られるギリギリの場面において必然的である。それは、大小の権力に震え上がりつつ、人間の汚い部分を思い知らされる状態である。この自身の汚さを知る者は、そう簡単に他人の汚さを責めることができない。「責任者出て来い」という正義は、確かな殺意を含む。「死ね」という暴言は無意味に存在するわけではない。

 私は学問として刑事法学を学んでいた際にも、実務に就いてからも、「厳罰よりも遺族の心のケアこそが本質的な問題なのだ」という主張を繰り返し聞かされた。「加害者を赦すような遺族は高貴である」という道徳観も多く聞いた。これらの見解の特徴は、大学教授などの社会的地位の高い者から語られつつ、その適否に関して当人は具体的な責任を負わないという点にある。

 「恨みや憎しみの連鎖は誰も幸福にしない」といった意見は、基本的に言いっ放しであり、個々に検証される機会はない。従って、その通りにならなかった場合に弁明を強いられる相手もおらず、「損害額の何割をどのような方法で填補するか」という身の危険に晒されることがない。人々の前で矢のような質問を浴びせられ、狼狽した表情を嘲笑されることもない。

 刑事法学は、地獄のような人生を現に生きていることの意義や、惨状の極限における人間の精神力の限界に直結する学問である。ところが、公権力を批判するのが使命である限り、その目線はあくまでも高い。その結果として、大小の権力の狭間で必死に生きている現場の人間の息遣いは消失する。私が見てきたのは、知識人の脳内の秩序に従った客観的世界ばかりであった。

(フィクションです。続きます。)